『庭園日本一 足立美術館をつくった男』(日経新聞社)ーー足立全康の美にとりつかれた男の笑いと涙の痛快一代記

 『庭園日本一 足立美術館をつくった男』(日経新聞社)を読了。

庭園日本一 足立美術館をつくった男

庭園日本一 足立美術館をつくった男

 

 足立全康の自伝。足立は、1989年島根県生まれ。1970年、71歳で足立美術館を開館。1990年、92歳で死去。足立美術館をつくった。

2003年、アメリカの日本庭園専門誌が日本の庭園ランキングを発表した。過去10年で389箇所の庭園の中から、あらゆる角度からの総合評価で、日本一に選ばれた。それが連続16年続いている。2位の桂離宮、二条城、詩仙堂金閣寺などを抑えた。

車引き、炭の小売、貝の卸し、露転商、米の仲買い、よろず屋、タドン屋、繊維の卸し商、刀剣製造、自動車販売、幼稚園経営、不動産業、、、。通算すると仕事は優に30は超えている。モットーは、努力と辛抱だった。

人相とはつまり、笑顔だと考えて常に笑顔を絶やさな買った。そして「自分は潰れても、相手には絶対に迷惑をかけない」と誠意を持って仕事に励んでいる。儲けてはすぐに損をすると言う、綱渡りのような危なっかしい生活の連続だった。

「私は事業を行う時、なんぼ借金ができるかから、スタートする。借金は信用の証」

「人と会う際、必ず備忘録を携帯。聞きたいこと、知りたいこと、相談したいことを予め項目別に書き記しておく」

酒の付き合いはかならず最初の席で切り上げる。

機知とユーモアを大事にした。得意技は、ワイ談だ。

 

以下、美術に関して。

資産形成は、現金、土地、株に三分するのがいいといわれているが、私の場合は株の代わりに美術品。投資と道楽を兼ねて、近代日本画と陶芸作品の収集に走った。

いつまでもそこに掛けて置きたい絵はやっぱり良い。

東京の山種美術館に対して、いい意味での強いライバル意識を燃やしていた。

名画との出会いは、一期一会である。人間の出会いと同じだ。

 「生の掛け軸」。床の間の壁をくりぬいて、穴を開け、背景の庭を山水画に見ててようとするものである。庭の「案内する足立翁」は、北村西望作。年中無休。

近代日本画の一大コレクションと5万坪の日本庭園。横山大観館。

2020年の開館50周年には北大路魯山人館をオープンする。

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中津。台風8号

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「名言との対話」8月6日。八田竹男「吉本新喜劇

八田 竹男(はった たけお、1914年9月15日 - 1991年8月6日)は、吉本興業社長。興行師、芸能プロモーター 

戦前の1937年吉本興業に入社。戦後は事業部、制作部の部長などを歴任。戦後は映画館経営に専念していた吉本興業に演芸部門を復活させ、うめだ花月京都花月なんば花月など演芸場を次々と開設し、今日の「笑いのヨシモト」を築き上げた。1977年には橋本鐵彦の後を継いで社長に就任。1986年、健康を理由に社長業を勇退した。

後に低迷していた吉本を立て直した木村政男は、八田が亡くなったとき次のように記している。京都花月の新入社員であった木村は制作担当の取締役時代から、上司として仕えていた。仕事師の面目がよくわかる解説だ。

早稲田大学に入り、中学時代からの同級生であった森繁久彌と演劇活動に励んでいた。中退をして戦前の吉本に入る。戦争で劇場の大半を焼失した吉本は、銀行から300万円の融資を受け、映画館から事業を再開させる。しかしテレビの台頭により陰りの見えた映画事業に代わって、演芸界への復帰を林社長に強く進言をした。新しい喜劇を作って、梅田花月の中継をMBSに任せる独占契約を結ぶことにした立役者となった。カミソリのような鋭さがあり、芸人、社員も恐れていた。手にはいつも本を持っていた。戦後の吉本の発展の礎を築いた多大な功績を遺した。八田が始めたのが「吉本ヴァラエティ」、後の「吉本新喜劇」だ。

今は吉本の全盛期だが、八田竹男も、木村政男も、吉本が低迷した時期に腕を振るっている。大小を問わず、多くの組織には上昇と下降の大きな波がある。下降した時期に危機を救う人材があらわれ盛り返す組織が長く生き残る。大企業でも、新興企業でも、必ずそういう循環がある。人物がいるかどうかが、組織の明暗と将来を決めるのは間違いない。