「没後70年 吉田博展」ーー「冬の精神を描き込むなら、画家は寒さの中にいなければならない」

 河口湖美術館で開催中の「没後70年 吉田博展」。

吉田 博(よしだ ひろし、1876年明治9年9月19日 - 1950年(昭和25年)4月5日)は、日本の洋画家版画家。自然と写実そして詩情を重視した作風で、明治、大正、昭和にかけて風景画家の第一人者として活躍した

吉田博は「絵の鬼」「早描きの天才」「煙突掃除屋」「黒田清輝を殴った男」「反骨の男」などの異名がある。一種の快男児だ。

博本人もそうだが、義父嘉三郎」も晴野家から吉田家に養子に入っている。晴野家は豊前中津藩の藩主につながる御用絵師の家系である。

17歳で博は上京し小山正太郎の不同舎に入る。「絵の鬼」と呼ばれた。[「殆ど無限とも言うべき精力を以て、かつ働き且つ制作した」(小杉放菴)。

明治美術会では新派と呼ばれた洋行帰りの10歳年上の黒田清輝率いる白馬会が優勢となり、1896年に東京美術学校に西洋画が新設されて、黒田や久米が教授となり門下生が国費留学生となった。小山正太郎、浅井忠らが中心の旧派となった明治美術会は旧派と呼ばれてしまう。

博と中川八郎はその黒田一派に対する対抗心をたぎらせ、23歳でアメリカへわたる。デトロイト美術館での展覧会で成功する。絵が売れて日本の小学校教師の13年分の売り上げを博は得た。次に訪れたボストン美術館でも大成功し、売り上げはデトロイトの2倍となった。そして最終目的地であるヨーロッパに向かう。それからアメリカに戻り、ボストン、ワシントンでのも成功をおさめ、2年間の大冒険旅行を閉じた。帰国した博は、明治美術会を太平洋画会へとし、改革を進めた。

明治40年東京府勧業博覧会の褒状返還騒動でリーダーとなった博は結婚し身を固め、第1回文展で受賞する。夏目漱石の「三四郎」に岡田と妻になったふじをの絵が登場する。森鴎外もこの文展会場で会い親しくなっている。文展での連続受賞が続き、第4回文展からは審査員になる。弱冠34歳であった。

自然に溶け込み、山紫明水の姿を借りて美の極致を示すことこそが芸術家の使命である、とする信念を持っていた博は専門家並みの用意周到さで登山をし、毎年夏には1-3カ月の間山にこもり絵を描いている。「味はへば味はふほど、山の風景には深い美が潜められている」。1936年には日本山岳協会を結成し画壇の一勢力を構成している。

 1923年の3度目の欧米旅行では、川瀬巴水伊東深水らの木版画や程度の低い浮世絵が売れていたのに刺激を受け、49歳から木版画の世界に入る。絵師、彫師、摺師の分業システムを尊重するものの、絵師の創造性を最高位に置くという考えだった。その作品には「自摺」という刻印が入っている。20年間で250作品を完成させている。日本アルプス十二題、瀬戸内海集、富士拾景、東京拾二題、日本南アルプス集、などの連作が人気だった。

欧米以外にも博は出かけている。55歳ではインド、セイロン、ビルマ、マレーシア、シンガポール、香港、台湾。60歳では韓国・中国を旅し、作品を描いているが、生涯の夢である「世界百景」は果たせなかった。

博の木版画の特徴は3つある。大判とよばれる大作、平均30版以上という版の多さ(陽明門」は96度摺り、「亀井戸」は88度摺り)、「帆船」シリーズのような時間帯別の色替え摺り技法だ。「職人を使うには自分がそれ以上に技術を知っていなければならむ」という考えの博はすべて自分一人でできるまで研究している。ダイアナ妃の書斎、フロイトの書斎にも博の木版画が飾られている。

落合の吉田御殿と陰口をいわれる自宅の2階のアトリエは50畳あった。戦後は米軍将校ら関係者が多数訪ねている。1950年死去。享年73。絵の鬼、近代風景画の巨匠と呼ばれた硬骨漢・吉田博は、「冬の精神を描き込むなら、画家は寒さの中にいなければならない」というほど徹底した現場主義者だった。この人を今まで知らなかったことを恥じる。

安永幸一『山と水の画家 吉田博』(弦書房) 

山と水の画家吉田博

山と水の画家吉田博

  • 作者:安永 幸一
  • 出版社/メーカー: 弦書房
  • 発売日: 2009/09/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

図録『没後70年 吉田博展』

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「名言との対話」12月3日。今井堅「剣をとっては 日本一に 夢は大きな 少年剣士 親はいないが 元気な笑顔 弱い人には 味方する おう! がんばれ 頼むぞ ぼくらの仲間 赤胴鈴之助

 今井堅(1908年10月17日ー1997年12月3日)は、昭和後期から平成時代にかけての出版経営者。

日大を出て小学館の社員だった今井は、1945年に「明々社」を創業し、絵物語月刊誌「冒険活劇文庫」(のち「少年画報」と改題)を創刊し、「黄金バット」「赤胴鈴之助」などを掲載して人気を博す。手塚治虫藤子不二雄ら、かつてのトキワ荘住人であった漫画家などが漫画を描いたこともあり、発行部数は常に上位を占めていた。1971年には「週刊少年キング」を創刊し、「柔道一直線」「銀河鉄道999」などをヒットさせた。1956年社名を少年画報社と改称した。

少年画報社は、創業以来、名作漫画を世に送り少年少女を夢中にさせた。「赤胴鈴之助」「まぼろし探偵」「柔道一直線」「キックの鬼」などは、漫画から始まってアニメ、実写などにもなっている。その他、「銀河鉄道999」「怪物くん」「「ワイルド7」「まんが道」「超人ロック」なども名作だ。

現在では、この会社はツッパリブームを作り出した「BADBOYS」「QP」「シマウマ」などの『ヤングキング』、「トライガンマキシマム」「ヘルシング」「エクセルサーガ」などの『アワーズ』、「猫絵十兵衛」「キジトラ猫の小梅さん」などの『ねこぱんち』など、数々の個性派沿いの漫画を出版している。

赤胴鈴之助」は、「少年画報」で1954年から1960年まで連載された。北辰一刀流千葉周作道場の少年剣士、金野鈴之助の活躍を描いた作品である。父親の形見である赤い(防具)を着けることから「赤胴鈴之助」と言われる。必殺技は「真空斬り」だ。私は少年時代に、この漫画をよく読み、ラジオ放送もよく聞いた、映画もみて、ワクワクしていたという覚えがある。「赤胴、鈴之助だ!」という声はも今だに耳に残っている。

「剣をとっては 日本一に 夢は大きな 少年剣士 親はいないが 元気な笑顔 弱い人には 味方する おう! がんばれ 頼むぞ ぼくらの仲間 赤胴鈴之助」が一番の歌詞である「赤胴鈴之助の歌」はなつかしい。

そのヒット作を連載した「少年画報」を生み出した漫画会社の創業者が今井堅である。そう考えると、ずいぶんとお世話になっている感じがする。漫画という表現分野は、手塚治虫をはじめ、スターが生まれている。活劇以外にも、今日では歴史、経済、名著、職人、スポーツなどあらゆる分野で実績をあげている。知識の獲得は、入り口としてまずは漫画からがいいのではないだろうか。今井堅はその広大な漫画界の礎を築いた一人である。