尾崎がく堂記念館(相模原市津久井町)--「義は是重し」(卆翁)

k-hisatune2009-06-03

「憲政の神様」尾崎行雄(1858-1954年)が生まれた地である、神奈川県相模原市津久井町に尾崎がく堂記念館がある。

尾崎行雄(1858年ー1954年)は3つほど年上の犬養毅(1855年ー1932年)とともに憲政の神様と称せられている。慶應で学び、福沢諭吉の推薦で新潟新聞の主筆を20歳で務めているから才気があったのだろう。大隈重信から気に入られて39歳に時に文部大臣、55歳の時に法務大臣をつとめている。

満州国建国は国家の利益にならない」など信念を発表する気概があり、この気概が尾崎を尾崎たらしめているとの印象を持った。西尾末広代議士の議会発言による除名に対して「黙しなば 安からましを 道のため 勇気を援け 危うきを践(ふ)む」と歌を詠んでいる。

94歳で書いた「わが遺書」という復刻版の書物を購入して前書きを読んでみると、その気概に心を打たれる思いがする。太平洋戦争を「おどろきべき無謀、公算なき戦争」と評価し、「こんどこそ方向を誤ってはならない」と考え、後世に残そうと考えた言葉集となっている。「みすみす日本の陥る淵が眼前に渦をまいておるにもかかわらず、それが見えなかったのである」とも述べている。この本は、第一部:世界と日本、第二部:日本改造の方途、第三部:命に代えて、という構成だ。

尾崎行雄は号を何度か変えている。学堂を、東京退去を命じら愕然としたため愕堂に改め、50歳ではりっしんべんを取り、そして90歳を機に卆翁と名乗る。「人生の本舞台は常に将来にあり」と言った。

東京市長をつとめた尾崎は、52歳の時に、アメリカ大統領タフト夫人との関係でワシントンに桜を贈る。一度目は害虫にやられたため、3000本を贈り、それが現在ワシントンのポトマック河畔を彩る桜に育っている。この桜を見るために1950年、91歳で訪米を果たし、育った桜を見る機会を得た。1957年にはアメリカからお返しのアメリカ・ハナミズキが贈られこの憲政記念館で4月下旬から5月上旬にかけて、美しく咲くという。

この東京市長時代は45歳から54歳のほぼ10年間続いている。国会議員と兼ねていた。その業績をあげてみる。

  • 市街地の改正・整備
  • 水道拡張事業
  • 下水道の改善
  • 道路の改善・街路樹の整備
  • 多摩川の水源の調査を行い、山梨県一之瀬の山奥の広大な三輪を、多摩川水源として買収し「給水百年の計」を樹立した尾崎行雄水源踏査記念碑が建てられている。

尾崎は慶應義塾福澤諭吉に1年半ほど学んだが、後年第一回総選挙で当選を果たしたとき、福沢に挨拶に行ったところ、
「道楽の発端有志と称す 馬鹿の骨頂議員となる 租先伝来の田を 売り尽くして 勝ち得たり 一年八百円」という詩を贈った。議員の年寺手は八百円だった。福沢は尾崎の政界進出をあまり、喜ばなかったようだ。その詩を読んで苦笑する尾崎の顔が浮かんでくるようだ。尾崎は福沢を「維新前後に生まれた最大の人物」ととらえていた。
「へだたればいよいよ高く覚ゆなり すぐれたる人すぐれたる山」という歌も詠んでいる。尾崎は歌人でもあり、折にふれて感慨を詠んで膨大な数の歌を残している。歌を読むという日本の文化と習慣の素晴らしさを改めて思った。

尾崎は20歳の時、長崎の人である繁と結婚し26年間連れ添ったが亡くし、47歳でテオドラという婦人と再婚している。テオドラ夫人は、尾崎三郎という日本人と英国人婦人との間に生まれた。この結婚は尾崎という同姓のため郵便物が間違って配送されたことがきっかけとなった。この記念館では尾崎と家族との写真とともに、家族のことを詠んだ歌も多く展示されている。家族を大事にした人である。家族写真の中に、パイロットとなった尾崎行輝という四男坊がいた。その息子は日航パイロットだったと案内の人から聞いた。そういえば尾崎という名前の立派なパイロットが日航におり、役員にまでなったことを思い出した。尾崎キャプテンはもしかしたら尾崎行雄の孫ではないだろうか。

この記念館には、様々な人が訪れるという。美智子さんも来られたし、SPに護られた小沢一郎氏も憲政の神様・尾崎行雄の足跡を偲んだ。その時の様子も聞いた。

尾崎は眼光けいけいとして、白い髯をはやした好男子であり、姿勢がよかったから、157センチながら立派にみえる。

「義は是重し」(卆翁)という尾崎が書いた額がかかっていた。議員生活60余年の間、一貫してあるべき姿を主張し、歴史に残る名演説を数多く行った尾崎行雄らしい言葉だと感銘を受けた。

1890年の第一回総選挙での31歳での当選以来、1952年の第25回総選挙(94歳)までの60数年間の議員生活、当選25回という記録は誰にも破られないだろう。95歳で初めて落選した時、衆議院名誉議員という称号を贈ってその偉業をたたたえている。大隈内閣の課奥亮として対シナ21カ条の要求に賛成したことを生涯の大失敗であったと反省した尾崎は、「今後はいかなる内閣にも入閣しない旨」を公表し、その後の機会をすべて拒絶している。その姿はすがすがしい。

帰りに書店で手に入れた大塚喜一著「がく堂 尾崎行雄ものがたり」(つくい書房)を読み終わったが、闘志溢れる姿がそこに書かれていた。

  • 何ごとであろうとも、己の力をもって国家の必要の仕事をなし遂げるという決心があり、かつ力量がなければなたぬ、(伊藤博文内閣弾劾)
  • 彼らは玉座をもって胸壁となし、詔勅をもって弾丸に代えて、政敵を倒さんとするものではないか。(桂太郎内閣弾劾演説)
  • 国防の最大要務は敵をつくらないのにあることを忘れてはならぬ
  • 世界すべての国家をして正義の国際裁判所を採用すること、及び狭隘なる国家主義の教育制度を変更することにより、道徳を基礎として立つようにさせたならば、、、
  • 憲政の常道というのは、正しき政党のあるときにおいての常道であって、今日のような悪いことをする政党に政権を渡すのは、憲政の常道であありようはずがない
  • われわれの私有財産天皇陛下といえども法律によらずには一指も触れさせたまう能わざるものであり、これが帝国憲法の精神である(丸山真男が関係した演説)

決死の覚悟で臨んだ1937年の軍部攻撃の舌鋒もすごい。79歳だった。そのとき懐にしていた辞世の歌。「正成が陣に臨める心もて 我は立つなり演壇の上」

  • 今日制定せられんとするところの憲法は、彼に比すれば非常に優れたものである。、、、良い憲法をつくることは、まことに容易なことである。しかしこれを行うことを非常に難しい。(1946年)

95歳まで政治の最前線の現役で仕事をした尾崎行雄。まさに憲政の神様というにふさわしい人生であった。

尾崎行雄の事績と言動は、今の世の中にも通じる知恵が込められている。この記念館は、2011年秋にリニュアルすると聞いた。さらに多くの資料を集め、多くの人が訪れる記念館にしてほしいものだ。