児童文学に百年の月日を捧げた石井桃子の見事な人生

石井桃子(1907-2008年)は、児童文学の第一人者であるが、本人の名前は知らなくても、この人のつくった本を見ていない人はいないだろう。児童文学では読む子どもにとっては誰が書いたかには関心はない。
浦和高等女学校を卒業した石井桃子は、日本女子大に入学する。大学のすぐ裏に菊池?が住んでいたこともあり、在学中から菊池のもとで外国雑誌や原書を読んでまとめるアルバイトをする。
大学卒業後、菊池?の文藝春秋社に入社。時の首相犬養毅の書庫の整理にあたる。5/15事件で犬養首相が暗殺されたとき、信濃町の私邸にかけつける。
文藝春秋社を退社。犬養邸で西園寺公一が犬養家の小どもたち(犬養道子、靖彦)へクリスマスプレゼントとして贈った「プー横町にたった家」の原書に出会う。
クマのプーさん」とミルンの2冊の童話集の原書を見つけ、犬養道子、康彦、病床にあった親友のために訳し始める。
新潮社に入社し、「一握りの砂」などを訳す。2/26事件の同年に新潮社を退社。
33歳、最初の単独翻訳書「熊のプーさん」(ミルン)を岩波書店より刊行。
1942年3戦争の息苦しさの中、35歳で「ノンちゃん雲に乗る」を書きはじめ翌年一応の完成をみる。
38歳、宮城県栗原郡鶯沢村で開墾、農業、酪農を始める。
40歳、「ノンちゃん雲に乗る」を大地書房より刊行。44歳、「ノンちゃん雲に乗る」を光文社より刊行し、芸術選奨文部大臣賞を受賞。

石井桃子の年譜を書き写していて、あまりに長いのでメモを途中で諦めた。30才前後から100才まで、実に70年間にわたって間断なく本を出し続けているのだ。「ノンちゃん雲にのる」「熊のプーさん」「うさこちゃんとうみ」など編集、翻訳、創作した児童向けの本は生涯で300冊ほどになる。90才を超えて「熊のプーさん」の作者、A・Aミルトンの自伝の全訳にとりかかり、5年をかけて2003年に「ミルトン自伝 今からでは遅すぎる」を96才で完遂する。次にエレーナ・エスティスの「百まいのきもの」の全面改訂に着手し、2006年に刊行。このとき、なんと99才!

「ノンちゃん雲に乗る」を久しぶりに読んでみた。

東京府の菖蒲町の8つになるノンちゃんという女の子の物語。
ある朝起きたらお母さんが親戚の家に行ってしまっていたので泣きながら歩いていて、大きな大木に行き着きました。その木に登って見ると、水たまりに雲が浮かんだ空が深く映っています。ノンちゃんは思い切ってその空に中へとんでみたら、ふわっと空中に浮かんでしまいました。そして雲の上にいるおじいさんと出逢います。そのおじいさんにノンちゃんは身の上話をすることになりました。
ノンちゃんはお母さんが大好きです。お母さんは先生であり友達でもありました。お母さんに名前があることは不思議でした。
ノンちゃんのにいちゃんはノンちゃんより二つ上です。自動車を止めようとするわるさをしたとき、お父さんは「かってなことをやっていたら、ほかの人がこまる」とこぶしでぶちました。それ以来お父さんはぶったことはありません。
このお兄ちゃんはノンちゃんによく意地悪をします。ノンちゃん成績が良くいつも全甲ですが、お兄ちゃんはそうではありませんが算数がよくできます。いたずらっ子ですが、雲のおじいさんはこのお兄ちゃんを気に入っています。
親孝行で、友達に親切で、先生のいいつけをよく守り、成績がよいというノンちゃんを、おじいさんは、そういう子は気をつけないとしくじると忠告します。「ひれふす心」がなければ勉強はできても、えらくはなれないというのです。
ふと目が覚めるとおかあさんとおばさんが泣いてすわっていました。ノンちゃんは木から落ちて怪我をしていたのでした。
雲の上であったお話を誰も信じてくれませんが、お医者さんは雲上大旅行の話を聞いてくれました。
ノンちゃんは空に落ちて、雲に乗った後、女学校を卒業して今はその上の学校に行っています。お医者さんになるのです。
その頃戦争が始まっていました。にいちゃんは、いつのまにか「にいさん」になっていました。そして男を待っている難関を黙々と突破していました。大きくなって兵隊になるまで戦争が続いました。本当ににいさんたちは本物の銃をとり、飛行機に乗るということになりました。同級生だった長吉は兵隊に行ったきり帰ってきません。

こういう物語だった。
この物語はこどもたちが戦争に行くような国になってはいけないということを述べた童話であるようだが、ノンちゃんというこどもの目を通してこどもの見ている情景がよく描かれている。
しみじみとして、こころあたたまる、そして深く考えさせる物語だ。本当に久しぶりにこの本をなつかしく読んだが、優れた創作児童文学であると思った。戦争中に書いたのだが、忠君愛国の話のない作品はどの出版社も相手にしてくれなかった。戦後、ようやく出版にこぎ着けたのだ。

この作品は多くの人に読まれたが、後に映画となってヒットする。ノンちゃん役は天才少女ピアニスト・鰐淵晴子、お母さん役は原節子、お父さん役は藤田進、おじいさん役は徳川夢声という配役である。バレエ振付は谷桃子、そして原作は石井桃子だ。

石井桃子の児童文学に関する発言を拾ってみる。
* こどもの目でおとなの技倆でその人はそれを書きはじめる
* 幼いうちは、形や絵で物ごとの実体をはっきりつかみ、物の考え方の基礎をかためながら、どんどん文字の世界にはいっていくことがぜひ必要なのだ。
* 五歳の人間には五歳なりの、十歳の人間には十歳なりの重大問題があります。それをとらえて人生のドラマをくみたてること、それが児童文学の問題です。
* 架空な世界までも、現実のように見せてします論理と表現力ということである。これは、たいへんなものにとりくんでしまったと、じつは私は心配している。
* 「あたたかい世界なんですよ。小学校のうちに楽しいもの、美しいものをつかんでほしい」(NHK ETV特集 シリーズ「21世紀の日本人へ」)
* 菊池寛氏の、人を一視同仁と見るあの視線、一種無邪気な透徹した物の見方が、今日の「文藝春秋」社の大を生みだした核のような気がしてならない。

 周りの人の石井桃子評を眺めてみよう。
「機知に富んだ辛辣な言葉をおだやかで柔らかな口調で語る魅力的な同時代人なのだった。」(金井美恵子
「偉い人です」「背筋がしゃんと伸びますね」「改訳を重ねられる方です」「まなざしがまっすぐなんですね」「文章を「凛然」と書いてはるという印象」、、、などという人物評を読むと、人柄がわかる気がしてくる。

石井桃子の自宅で「かつら文庫」を手伝っていた荒井督子は、「朝食は七時、昼食は正午、夕食は六時、と決まっています。」、「毎日、朝夕二回、長靴姿で、かかさずデュークの散歩に出かけられました」「早朝の散歩、午前中は書斎でのお仕事、昼食後の短いお昼寝と、一日の日課はきちんと守られていました」と語っている。規則正しく、倦まずたゆまず仕事を進めていく姿がみえるようだ。
「身だしなみのよさは、格別でした。」「お料理が上手でしたが、私がとくに感心したのは、手際のよさです。」「その規則正しいこと!」「石井さんの暮らしぶりは「まるで修道院の修練長さまみたい」とのことでした。」「すばらしいご生涯!」

 年譜を見て、結婚や家族のことがまったく出てこないので不思議に思っていたら、「ユリイカ」の石井桃子特集で、独身だったことがわかった。
また、興味深いエピソードが載っていた。あの太宰治が、井伏鱒二を通じてつきあいを申し込んだことがあった。二人が将棋を指しているところに、若き石井桃子が「ドリトル先生」のゲラを持ってやってきた。後で太宰は井伏に橋渡しを頼むが断られる。太宰が自殺したときに記者が「もしも太宰治と結婚していたら、、」と訊くと、「私がもしあの人の妻だったら、あんなことはさせません」と語ったという。この件に関して、石井桃子本人の文章が残っている。
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それから、井伏さんは、ひょっと、「太宰君、あなたがすきでしたね。」と、おっしゃった。、、
「それを言ってくださればよかったのに。私なら、太宰さん殺しませんよ。」と言った。、、
「だから、住所知らしたんじゃありませんか。」と、井伏さんはおっしゃった。

 100年を生きた石井桃子は、作家・創作者、翻訳者、エッセイスト・評論家、読書運動家、編集者と5つの顔があるが、その対象はすべて子どもだった。

石井桃子集7」から石井のことを記してみよう。

石井桃子は、ふたつのことをしたいと考えていた。小さい農場を経営することと、子どもの図書室をつくることだった。石井は、自分の子ども時代に本に読みふけったたのしさは忘れなかった。「きょう、どの本を借りようかと、本棚をさがすときの、宝の山に分け入ったようなたのしさ、、、」。そのたのしさを本を買えない子どもたちに味わってもらいたいと思った。また子どもたちといっしょに本を読んで、人生と日本語の勉強をしたいと思った。
「私は、子どもというものを、一度もばかにして考えたことはないし、子どものために愛情のこもった仕事をしている人を見ると、ありがたくなる。」

 アンデルセンの家を訪問したとき、
「私の生涯はたいへん事件の多い幸福な一生であった」という自伝の第一行目めを見いだしたとたん、私の心臓から血がしたたりはじめた。」とその感動を書いている。

「絵本の強みは、絵本には文字もついているが、もう一つ、万国共通のことばである絵が、ストーリーの半分以上をうけもっていることである。」

「出版社につとめて、子どもの本を売る立場になってから、私の児童文学の勉強がはじまったといえるだろう。
しかし、これは、いわば、りくつの勉強で、
「ほんとうは、出版社をやめて、子どもと一しょに本を読むようになってからが、じっさいの勉強だったようにも思える。」

「架空な世界までも、現実のように見せてしまう論理と表現力ということである。これはたいへんなものにとりくんでしまったと、じつは私は心配している

「五歳の人間には五歳なりの、十歳の人間には十歳なりの重大問題があります。それをとらえて、人生のドラマをくみたてること、それが児童文学の問題です。」
「元来、児童文学に必要なものは、何でもを可能にする空想と、必然性、客観性です。」

「絵本は、おとなが子どものために創りだした、最もいいもの、だいじなものの一つということができないだろうか。」
「文と絵は、両方から歩みよって、文、または、絵が、べつべつにあったときとは、また一つちがったものをつくりだす。」
「とくに、幼い子のお話は、絵画なくても、子どもの心に、ことばが動くを絵をつくらなければ、子どもをひきつけることはできない。」

 90歳では、「いろいろなことがあった。戦争前があり、戦争があり、飢えを知り、土を耕すこともおぼえ、それから戦後があった、それをみな、私のからだが通りぬけてきた」と述懐している。

 揺れ動く時代と社会の中で、3,4歳から12歳までを対象とする児童文学という困難な仕事を、倦まずたゆまず着実に積み重ねていった100年を超える見事な人生だった。