佐藤愛子「スニヨンの一生」-スニヨン、中村輝夫、李光輝の3つの名前

佐藤愛子「スニヨンの一生」(文春文庫)を読了。

スニヨンの一生 (文春文庫)

スニヨンの一生 (文春文庫)


著者の佐藤愛子は1923年生まれ(大正12年)というから私の父と同い年。この本は1987年に第1刷とあるから著者64歳の時の作品である。
「スニヨン」というのは、1918年台湾生まれの高砂族の名前である。

日本が台湾を植民地していた時代に彼は25歳の時に志願兵として日本兵になった。そのときにつけられらたのは「中村輝男夫」という名前であった。
中村輝男は日本陸軍の南方作戦で高砂義勇隊一等兵としてモロタイ島で戦った。
日本の敗戦時に、台湾の国民政府は戸籍整理を行い、本人が知らないまま「李光輝」と名付けられた。そのとき28歳だった。
29年以上、モロタイ島の密林の奥で逃亡生活を送り、ついに発見された時、彼は57歳になっていた。

故郷の台湾に戻った時、10年待った妻・李蘭英(日本名・中村正子)は生活のために51歳の農夫と再婚していた。三角婚姻である。その第二夫(黄金木)、そして子供たちとの葛藤の後に、彼は妻と子供たちと一緒に暮らすことになった。
すでに日本人ではなくなっていたので、日本からの補償はなかった。わずか6万8千円を手にした。グアム島から帰った横井軍曹は政府と民間から2400万円、ルバング島から帰った小野田少尉は手記その他で3500万円ほどを手にした。

故郷では、古い友だちや訪問客の相手をして酒を飲み、タバコを吸って豊かな日々をおくった。蒋経国の総統就任式にアミ族の祝賀隊の先頭にもたった。
1979年に61歳で、スニヨン、中村輝夫、李光輝という3つの名前を余儀なくされた彼は肺がんでなくなった。

「後書き」で著者が書いているように、「彼はかく生きた」ということの記録になった。結果的に中村輝夫とその背後にいるすべての台湾元日本兵の鎮魂の書になった。丹念な資料の読み込みと関係者への直接取材で、中村輝夫の像をつくっていった。戦争がもたらした罪と翻弄された台湾人の軌跡が過不足なく描かれており、資料的価値は高い。

このところ、おおづかみの台湾の歴史、為政者の伝記という上からの目線で台湾に関する本を読んできたが、この書は一人の末端の人がその時代をどのような困難に向き合って生きたかを教えてくれた。時代に翻弄された人の生き方に深く考えさせられる。