八木哲郎『中国と日本に生きた高遠家の人々』ーー著者畢生のライフワークが長く読み継がれることを願う

 八木哲郎「中国と日本に生きた高遠家の人々」(日本地域社会研究所)を2度読了。

 1928年(昭和3年)から1946年(昭和21年)にかけての日本と中国をめぐる時代の推移を克明に描写した小説の形で描いた実録である。著者は1931年に中国・天津で生まれた人物であり、自らの祖父と父の生きた時代の日中の複雑な関係、そして不幸な戦争の時代を活写している。

著者は、東京外語大学国語学科を卒業し、中国ビジネスの通訳などもしていたこともある。ライフワークを近代中国としており、自らの自伝的作品の『天津の日本少年』、そして義和団事件キリスト教宣教師の実像を描いた『19世紀の偉人 ハドソン・テーラー』など中国関係の著書もある。

この物語は、高遠家という架空の三代の家族が主役である。著者と同世代の登場人物の父親は1904年(明治37年)生まれで、母親は1907年(明治40年)である。この世代が主役であるが、中国から東大に留学生した間借り人なども登場し、日中関係の推移がよくわかる。長い物語で、祖父は裁判官、中堅の経済学者であるその弟、そして士官学校出のロシア専門の軍人に嫁した37歳で未亡人になる長女、中国に駐在する商社マンと結婚し39歳で死亡した次女、東大生で後に出版社を経営する長男の正夫、14歳で赤痢で早逝する三女の由紀子たちを描く。そして30年後の1976年前後には、次女の遺児は、官僚、エンジニア、自営業となっている。

 この本には日本が日中戦争にのめり込んでいく様子が克明に描かれている。治安維持法石原莞爾の世界最終戦論。満州国リットン調査団蒋介石。張学良。国共合作毛沢東八路軍。2・26事件。蘆溝橋事件。インフレ。租界。中国の大水害。ノモンハン事件。太平洋戦争。大干ばつ。内地の空襲。、、、。また世相もふんだんに盛り込まれていて読み物としての工夫もある。エノケン。木村屋のパン。松屋の遊園地。虎屋の羊羹。三越本店。白木屋千疋屋。、、。

著者はこの小説を書くにあたって、1928年から1945年まで、つまり戦前の昭和から戦争の昭和にかけての激動期をリアルに描くために、朝日新聞の縮刷版を丹念に読んでいった。1年分を1日というじっくりとしたペースである。重要記事はコピーした。八幡山大宅壮一文庫で当時の雑誌論文や記事を読み、当時の識者の発言を追いかけた。そして高遠家の舞台となった世田谷の赤堤付近も歩いて現在の写真も撮影している。当時の写真は郷土資料館で入手するなど、フィールドワークも丹念に行っている。この本の中で、当時の政治、経済の状況を登場人物たちに議論させているのは、こういった資料の肝の部分をわからせるためである。そのためには中流の高学歴の家庭を設定する必要があった。こういった工夫が随所にみられ、読者は戦争についての議論を概念的に聞くより、そして戦争の悲惨さだけをみるより、バランスよくまたよりリアルに戦争に至った経緯を含め知ることができる構成になっている。

また、中国共産党の指導する八路軍についての記述も詳しい。1936年の西安事件を機に国共合作がなり、5万足らずの中共群が国民革命軍第八路軍らに編成されて抗日戦争に加わる。それから12年で中国大陸の政権を握る。その八路軍の戦術、愛国心、厳しい軍律、などの記述によって国民党軍を倒したことがよくわかる。

中国近代史における義和団事件をライフイワークとして調べていた著者は、この本の中で70歳前の正夫が志したように、ようやく毛沢東の政権獲得までを描くことに成功したのだ。

 太平洋戦争は利益よりも払った犠牲がはるかに大きかった。そして結果的であるが、中国、インド、東南アジア諸国の独立に力を貸したことになった。この視点から正夫は本を書こうというところでこの本は終わっている。その正夫の役を著者が果たしたのである。米寿を迎えた著者畢生のライフワークが成った。この労作は残すべき貴重な作品であり、長く読み続かれることを願う。

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 1週間ぶりのジム:スイミング600m。

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今日の収穫。野中郁次郎日経新聞私の履歴書」(190907)

米国の経営学の概念を受け売りする日本という関係は、残念ながら今もあまり変わらない。、、、。日本の経営学は一言でいえば「解釈学」に終始してきた。海外の学問を紹介し、解釈するおが学問だとされてきた。できあがった理論や手法を「ハウツー」として吸収するばかりで、日本からはなかなか面白い概念が出てこない。、、、、、、近年ではROE(自己資本利益率)経営が典型で例で、最近は内容をよく理解しないままにSDGs(持続可能な開発目標)経営とみんなが口にする。もう海外の模倣はやめよう。

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「名言との対話」9月8日。東野英治郎「顏はその人の人生の総決算書みたいなもので、いいか顔になろうと思えば、それだけの努力をしなければなれるものではない」

東野 英治郎(とうの えいじろう、1907年9月17日 - 1994年9月8日)は日本俳優随筆家

明治大学商学部に入学し、プロレタリア演劇研究所の第1期生となり、新築地劇団に入っり、同劇団の中心となる。歌舞伎に対抗する新しいが新劇である。俳優と政治運動家の両立に苦悩して、1940年に治安維持法違反容疑で留置場生活を送る。1944年日本千田是也らと「俳優座」を創設する。戦後は舞台と映画で活躍し新劇界を代表する演技派となった。

日本映画界を代表する脇役となった。演技幅も広く、善悪さまざまな役をこなした。 後年になって脇役が増えた平幹二郎に「芝居は主役が芯をとってリードする。その流れている芝居のテンポに沿って、自分の役を作っていかなきゃいけない」とアドバイスをしている。「知識や理論は実践でのみ生きる」が東野の信条であり、出演映画は「七人の侍」「どん底」「自由学校」「東京物語」など330本以上にのぼっている。

テレビドラマでは1969年8月4日からTBS系列の時代劇水戸黄門』で主役の徳川光圀を、第1部から第13部まで足掛け14年、全381回にわたって演じ、高視聴率をとって東野の代表作となった。この番組は西村晃里見浩太朗武田鉄矢などが、演じて国民的人気番組として長寿を誇っている。私もよくみたが、名脇役東野英治郎は「水戸黄門」の主役として歴史に名を残した結果となった。

息子の東野英心『漫遊役者 東野英治郎』を読んだ。東野の私生活が明らかにされている。下宿の大家であった英のは男勝りの頑固な明治の女で英治郎より年齢は一回り上である。その英のと所帯を持った。しかし、21歳年下で19歳だった禮子に東野は惹かれていき妻と別居状態となり、禮子と同棲生活を送る。30年以上経って、英のの死後、1982年やっと入籍する。当初反対していた英心は長い年月日陰の身で父を支えてくれた禮子との結婚を承諾する。

中身と顔は別ではない。識見や思考が、人間としての深さや幅に出る。それが演技ににじみ出る。顔はやはり人生の決算書である。

 

漫遊役者 東野英治郎 昭和芸能「情と葛藤」の人生 (ラピュータブックス LJライブラリー)

漫遊役者 東野英治郎 昭和芸能「情と葛藤」の人生 (ラピュータブックス LJライブラリー)