今週は「実年期」のモデルへの「インタビュー・ウイーク」。

今週は9月発刊予定の本のためのインタビューウイークになります。

「実年期」のモデルのインタビューの準備。質問の体系を整理しました。

60代、70代で、生き生きと活動している人たちが対象。3人はZOOM取材で東京と熊本人吉。リアルは2人で小田原と銀座でインタビューします。

5人のキーワードは「アートソムリエ」、「個人美術館」、「自分史」、「地域活性化」、「日本探検」。

 何をテーマに、どういうことをやっていますか。実際の活動。交流。日本。アドバイス。人生。これから。、、、、、

明日からスタートです。

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NPO法人の書類作成。

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夜はデメケンのミーティング:サウジアラビアから帰国中の五條堀先生も少しだけ参加。

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「名言との対話」7月5日。高城喜三郎「カラオケを世界語にしてくれ」

 高城喜三郎(1936年7月5日〜  )は、日本の経営者。

大阪船場で生まれる。関西大学商学部卒。好きな音楽と関係する仕事を選びレコード店の店員として働き23歳で「日光堂」を設立し独立。27歳で自宅改造の店舗から独自の商法を次々と打ち出し、ジュークボックス業者など大口の取引先を得ていく。エコーを利かすといいことなど気がつくと即実行するアイデアマンだ。

伴奏を8トラックのテープに録音、既成のエコー装置と組み合わせカラオケ1号機「カラオケジューク」を発明する。歌を聴くものから歌う ものに変えたのだ。インベーダーゲームの台頭によるピンチを乗り切り、カラオケの技術革新競争の中ではレーザーディスクを採用し成功する。

ドイツ、ブラジル、スペイン、フランスで「KARAOKE」を商標登録、アメリカでは「KARAOKE JUKE」で登録し、台湾語や北京語、広東語を皮 切りに様々な言語のソフトを作成、日本で生まれたカラオケを「KARAOKE」は世界共通の言語になった。

香港、上海などに進出。華僑らがカナダなどで活用し中国人社会でブームになる。「カラオケを世界語にしてくれ」という言葉に感銘を受けた旅行代理店を経営していた黒部をアメリカの社長にすえて、アメリカ向けのハードを開発し成功する。

 結婚式 の2次会で式の模様を流しながらカラオケで歌うなど、気軽に利用できるア ミューズメントとして認知されていく。高城はバーコードを使ったリクエスト方式でカラオケの操作を簡略化するなど、カラオケシステムを次々と確立していく。

1997年、株式の店頭(現ジャスダック)上場を果たす。「各自が株を持ち寄ったものが株式会社」、との信念で上場以前から社員持ち株会を実施、上場後には 社員の中からも億万長者を出す。

1991年にロンドン・シティで開催されたLSO(ロンドン・シンフォニー・オーケストラ)のサマー ポップスに後援。英国ABSA(Association for Business Sponsorship of the Arts) よりBSIS(Business Sponsorship Incentive Scheme)賞を受賞 。

カラオケは音楽についての理解の深さとエレクトロニクス技術の高さが結合した日本独特の傑作だ。人々の絆をつくり、深める装置となっている。このカラオケは自己満足商品、いや自己実現を応援する画期的な装置だと思う。若者から高齢者までカラオケは幅広い層に受け入れられ、それぞれの青春を懐かしみ、人生を考える時間にもなっているように思う。

ビジネスマン時代はしょっちゅう、カラオケバーで歌ったものだ。JALで広報という仕事をしたとき、レーザーディスクの映像に飛行機の映像を使うことを試みたこともある。酔っぱらって心が解放感に満たされているときに、「鶴丸」を打ち込もうという作戦だった。

そして日本企業の海外進出で淋しさを紛らわすのがカラオケである。1970年代、私が20代でロンドンで仕事をしていたとき、中東に出張したが、JALの単身赴任の現地派遣員は砂漠的生活の中でカラオケに興じていたことを思い出す。2000年代初めに中国吉林省吉林大学で客員をしていた時、歓迎の宴はやはりカラオケで「北の宿から」を一緒に歌ったこともある。日本文化の中で世界に最も影響を与えてのはこのカラオケだろう。

好きな音楽という分野で、「カラオケを世界語に」という大きな志を実現し、それを政界共通の文化にまで高めた高城喜三郎の業績は高く評価されるべきだ。