図解書評の試み

さて、どう考えるか。

前と後。立体的理解。補足。文章の凄み。文図両道。

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レクサスの6ヶ月点検

書店で本を物色。その後、「ラケル」(WIFI)でコーヒー。

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「名言との対話」12月23日。早乙女貢会津武士の末裔としての血の意識が痛切に私の運命を支配している」

早乙女貢(さおとめ みつぐ、1926年1月1日-2008年12月23日)は、日本の歴史小説・時代小説作家。享年82。

戊辰戦争で賊軍とされた会津藩士であった曾祖父は、アメリカへ渡った。その娘である祖母から、旧満州において会津精神を叩き込まれた。十五歳頃には作家を志し、「会津」を書くことを強く意識する。敗戦後、中国・旧満州ハルピンから九州博多へ引き揚げる。1948年、上京し、山本周五郎の知遇を得て師事する。

1969年、「僑人の檻」で直木賞を受賞。その後は時代小説・歴史小説を主軸に、現代小説、ミステリー、歴史エッセイ、評論、紀行など多彩な創作活動を展開した。

大衆文学研究賞特別賞を受賞した2003年刊行の『わが師 山本周五郎』(集英社文庫)を読んだ。尾崎四郎が「曲軒」と名づけたように、狷介で扱いにくい周五郎に可愛がられながら、文学修行と人間修行を積んでいく。早乙女の本名は、1月1日生まれの太閤秀吉に因んだ鈴ヶ江秀吉である。ペンネームは「若い娘に貢ぐ」という意味だという。師は執拗にこの名前の変更を勧めた。作家は作品で勝負すべきで、名前は平凡でよいという考えだったが、早乙女は応じなかった。

本書では、身近で観察できた弟子の立場から、師の思想や日常が語られている。師を語ることは、弟子自らを語ることでもある。私も周五郎のファンであり、二人の作家を理解するうえで貴重な一冊であった。

早乙女貢は、師・山本周五郎が没して三年後から、この鎮魂の書ともいうべきライフワークに着手する。『会津士魂』は1970年から18年にわたって『歴史読本』に連載され、62歳で7000枚・全13巻の長編として完結し、吉川英治文学賞を受賞した。その後『続会津士魂』全8巻も執筆し、2001年、33年の歳月を費やして75歳でついに完結する。

周五郎は、「書かずにいられないもの」があるなら、どんな偉大な作者も及ばない独自の価値があると語っている。早乙女の場合、それが「会津」だった。早乙女貢は、敗者の側から歴史を丹念に検証していった。それを支えたのは、怨念であった。

早乙女にはエッセイが少ない。「自分の身の回りのことを書く暇があったら、一篇でも多く小説を書く」という考えであり、それは師も同じだった。また、日本ペンクラブでは常任理事、専務理事を務め、1985年のサンマリノハンブルクルガーノ、ソウル、1997年のブレッドまで、毎年のように国際ペン大会にも出席している。曾祖父のアメリ渡航、中国での祖母の薫陶、外交官であった父といった生い立ちから、国際感覚を備えていたのであろう。

直木賞受賞時には、東京新聞に「私の血の命じるまま」と題して寄稿し、「会津武士の末裔としての血の意識が痛切に私の運命を支配しているのは、曽祖父の悲憤が三代にわたって外国生活を強いる結果となったことと無関係ではない」と書いている。会津にこだわったのは、血のなせる業だった。この点、祖母が早乙女に与えた教育の影響を忘れることはできない。山形の阿部記念館で、次郎の祖母が偉かったという話を聞いたことがあるが、同じように早乙女貢を形づくったのも、会津魂の塊であった祖母であった。家庭教育の影響力を、改めて思った。