書斎の片づけをしていると、色々な資料が出てくる。いくつか懐かしい写真もあった。ブログにアップしてデータベース化。
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JALサービス委員会時代の「転身を祝う会」。広報時代のメンバー中心。

以下、広報部時代。山地社長、柴生田課長らと瀬戸内海の生口島。

利光社長らと。

塩田広報部長以下、本社の仲間と。

広報部時代の職場の風景。






札幌空港時代のOB会。

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午後:メタモジの記者発表会にオンライン出席。
夜:都築さんとミーティング。
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「名言との対話」12月11日。千石イエス「楽して、ええめにあうこっちゃ」
千石イエス(1923年7月12日-2001年12月11日。本名・千石剛賢)は宗教家で、新興キリスト教団体「イエスの方舟」の主宰者である。享年78。
海軍に入隊し、戦後は刃物工場経営、てきや、レストランの支配人などの職を転々としながらキリスト教会に通った。大阪の聖書研究会で伝道活動を始め、1960年に東京で「極東キリスト集会」(のちに「イエスの方舟」と改称)を開き、会員との共同生活を始める。1970年代に入ると、親子関係などに悩む若い女性が次々と相談に訪れ、家出して入信する事例が続いたため、「娘を返せ」と迫る親たちとの間でトラブルとなった。
1978年から2年以上、「イエスの方舟」は集団失踪し全国各地を転々と漂流する。マスコミにより「千石イエス」とあだ名され、「千石ハーレム」「現代の神隠し」などと騒がれ、警察も動く社会問題に発展した。千石は「家に戻されるぐらいなら自殺する」と懇願する女性をかばい、守ろうとしたという。逃避行から2年が経った1980年夏、女性たちがメディアの前に姿を見せ、自らの意思で「方舟」に参加していると表明し、騒動は収束した。
その後、「イエスの方舟」は流れ着いた博多で活動を続け、1981年には中洲にナイトクラブ「シオンの娘」を開業して生活の糧を得ながら、聖書研究会や人生相談などの伝道活動を続けた。「シオンの娘」ではホステスは飲酒も同伴もしない。「聖書を勉強しているからか、会話に愛がある。他の店にない和みがあった」と客は語る。礼儀作法はウエートレスに厳しくしつけられており、宗教学者の島田裕巳は寮生活と、東京の名喫茶「談話室滝沢」を連想したという。中洲のクラブ「シオンの娘」は2019年12月30日に38年の歴史に幕を下ろした。ビートたけし主演の『イエスの方舟』は昭和60年度文化庁芸術祭・芸術作品賞を受賞している。
『父とはだれか母とは誰かーー「イエスの方舟」の生活と思想』(春秋社、1986年)を読んだ。2日間にわたるインタビュアーとの対話をもとに編集された本である。「千石イエスというのは、私自身がいちばん嫌うことやからね」「この名前ほど、主のみ名を冒涜しているものはありません」など、千石の言葉を拾ってみる。
「他者が幸せになるようにふるまってこそ、はじめて自分の幸せということが具体的になる」「努力だとか、工夫だとか、頑張りだとか、修行だとか、そういうものがあったらおかしいと思う。聖書にはそんなことはどこにも書いていないですから」「他者を生かそうとする行為の中にすばらしい満足がある」「聖書ぐらいほんとうのことを言うてあるものはないんです」「主イエスは比喩の名人みたいなもんやね。まちがいなく神の子ですね」「ほんとうの人生は、1年を区切れば365通りの喜びがあるのだ。それがパラダイスだと」
会員は「いちばんいい時間を聖書を勉強する時間、というか集会の時間に当てています」と語り、リズムのある生活に満足している。インタビュアーの芹沢俊介はナイトクラブ「シオンの娘」について「竜宮へ行ったような感じ」と話し、若さと内からあふれ出るエロス、生命感を感じたという。この本には、美しい女性会員たちと千石が一緒に写った華やかな写真も掲載されている。今回、「シオンの娘」が閉店するときの映像も見てみた。
行動の中でイエスの言葉を見つめようとする千石のいう「楽して、ええめにあうこっちゃ」は、努力・工夫・修行はおかしいという考え方を示している。あらゆるものに仏性が備わっているという点では仏教はキリスト教と同じだが、そのための修行は必要ないというわけだ。「イエスの方舟事件」についてはメディアを通じて知っていたが、何ごとも当事者の発言を聞かなければ真相はわからないものだ。
参考。『父とはだれか母とは誰かーー『「イエスの方舟」の生活と思想』(春秋社