焼津小泉八雲記念館ーー「我々人間の肉体は、幾世代もの先祖の魂の複合体である」

昨日訪問した焼津小泉八雲記念館の訪問記。

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『焼津小泉八雲記念館ーー八雲と焼津2007』という小冊子を興味深く読んだ。巻頭の「ご挨拶」は、この記念館の名誉館長の小泉凡さんだ。「弱い者いじめ」と「うそつき」が何より嫌いだったとそうだ。この人のラジオでの声を聴いたことがあり、また松江の小泉八雲記念館の見学と、その後の懇親会では隣で酒を飲んだことがある。

小泉八雲ラフカディオ・ハーン)はギリシャ生まれ。アイルランドのダブリン、フランス、アメリカのシイシナチ、ニューオリンズ西インド諸島のマルテニーク島。そしてあこがれの日本に。島根県松江、熊本、神戸、東京。放浪の旅人だった。八雲の生涯を眺めると、人間関係に難があったらしく、次の仕事のめどもなく辞めることが多かった。その中でも、焼津の海と素朴な人々との交流には満足していた。

小泉八雲は、深くて荒い焼津の海が気に入った。焼津の浜通りの魚商人の山口乙吉の家の2階を借りて、毎年夏を過ごすことになった。
八雲の趣味は水泳である。焼津は絶好の遊泳地だった。
八雲は、乙吉を「神様のような人」と言い、「乙吉さーま」と呼んだ。さっぱりした気性であけっぴろげの典型的な焼津っ子である。そして、焼津の人々は、八雲を「先生様」と呼んだ。
八雲は「乙吉のだるま」と言う作品を書いている。八雲は、その他「漂流」、「海辺」を含めた「日本雑記」を書いた。
展示されている草稿「美の中の悲哀」には、「我々人間の肉体は、幾世代もの先祖の魂の複合体である」と唱えた独特の哲学が描写されている。
焼津滞在中の八雲から東京で留守をしているセツ夫人に送ったカタカナの手紙が展示されている。八雲の日本語はカタコトであった。その言い方は後年「ヘルンさん言葉」と呼ばれた。その手紙には、ユーモラスなスケッチもあり、焼津での出来事や連れてきた子供たちの様子、設夫人への愛情などが書かれている。
八雲は帝大講師時代の1897年(明治30年の47歳から1904年(明治37年)の54歳まで実に6回焼津を訪れている。滞在期間は約1ヵ月前後であった。
1904年には日露戦争が勃発した。日本海軍がウラジオ艦隊を撃破したときぬは、「何ぼう喜ばしの鬼退治!」と叫び、乙吉の店ですべての玉ラムネを開け、人々に振る舞った。八雲は日露戦争の海戦にあたり、海外の新聞雑誌へ日本びいきの記事を書き送っていた。
1903年には帝国大学の文化大学講師を解雇される。後任は夏目漱石であった。翌1904年には早稲田大学文学科講師として招聘された。しかし、教壇に立つことは叶わなかった。9月には心臓発作を起こし亡くなったのである。54歳であった。

焼津の小泉八雲記念館は、焼津の人々の愛情のこもった素晴らしい記念館だった。

毎年のひと夏を過ごした家。

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八雲の部屋。ここでは座り机だった。

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八雲の著書。八雲関係の書籍。

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朝は9時からのヨガ教室。夕刻の17時から20時までは、唐木田の「神成さん家」でMiwa先生を囲んだ教え子たちとの酒盛り。「温かい家庭料理と美味しいお酒」という看板通りのすてきな店。料理、お酒、会話を存分に楽しんだ3時間だった。

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「名言との対話」5月25日。川上源一「足元が明るいうちにグッドバイ」

川上 源一(かわかみ げんいち、1912年1月30日 - 2002年5月25日)は、日本楽器製造株式会社(現ヤマハ株式会社)の第4代社長。ヤマハ発動機株式会社創業者でもある。

旧制高千穂高等商業学校(のちの高千穂大学)卒業後、日本楽器製造(現:ヤマハ)に入社し、社長に就任し、ピアノ生産量を世界一にする。ヤマハの伝統戦略はこうだ。赤ちゃんが生まれると毎月1000円づつ貯金をしてもらう。4からヤマハ音楽教室でピアノを習い、10歳になった頃に溜まったお金でピアノを買うというストーリーをつくった。我が家もその通りの道筋で子どもたちはピアノを弾けるようになったし、ピアノは今でもリビングに鎮座している。そおういった戦略のおかげでピアノに親しむ習慣が根づいた。日本は今ではピアノの普及率は世界一となっている。また開発した電子オルガン「エレクトーン」は、電子オルガンの代名詞にもなった。

1955年にヤマハ発動機を創業し社長を兼務し、オートバイ、スポーツ用品、レクリエーションなど各種事業を創業した。会社の休日を「土日」ではなく、「日月」にし、レジャー産業を社員に教育している。「慎重に急げ」はオートバイ事業に進出した時の名言である。「日本も復興してきたたら、レジャーが産業になる」と考え、社長就任後、わずか1年でオートバイを製造販売し大ヒットさせた。川上は強烈なイノベーターであり、大きな成果を挙げた「ヤマハ中興の祖」である。

川上は次々と直面する課題に対して即時の決断と素早い実行を行ってきた。それには次のような心構えがあったのだ。「社長は戦国時代の大名と一緒で、すべて背水の陣でものを考えている。その都度、その都度、私自身、自分の決心に時間をかけたことはない」「常に自分の事業の姿がどうならなければならないか、という見通しを持っていなければ的確な意志決定はできない」。

 

『社長の椅子が泣いている』(講談社)を読んだ。この本は川上源一の指名を受けてヤマハ楽器の社長になった河島博について書かれた本だ。兄は・喜好は本田技研工業の社長である。兄弟社長は珍しかった。65歳の河上源一は「明るいうちにグッドバイ」との名言を残して去ったが、数年後には好調な業績をあげつつあった後継社長を解任し、社長に復帰している。兄は「沈黙は金。日記に書いておけ。私は高く評価している、ご苦労であった」と伝えている。涙が出てくる愛情のこもった、そしてトップの進退をめぐ貴重なアドバイスで、読んでいて涙がでてくる。

「社長と副社長との間の距離は、副社長とヒラ社員の距離よりも遠い」という旭化成の宮崎輝の名言があるように、不満もあったのであろう。ヤマハは源一の父、本人、息子と3代にわたって経営を担ったこともあり、「川上天皇」にも世襲批判はあった。やはり事業のバトンタッチは難題である。さすがの川上源一も、引き際の魔術師とはいかなかったようである。