今まで宝塚の記念館を訪問し、「ブッダ」展をみてきた。「鉄腕アトム」の漫画とアニメ、「火の鳥」も繰り返し読んできた。
今日も発見もあった。手塚治虫のような傑出した偉人は、さまざまの角度から眺めないと実像にせまることができない。そして時間をかけて何度も親しむことで、しだい全体像に接近することができる。それを痛感した。
購入した図録『TEZUKA OSAMU』で、本人が書いた手塚治虫のメッセージを受け取ることにした。まず一つだけ、「鉄腕アトム」に込めた願いを取り上げたい。メッセージを誤解していた。この図録を読んで、改めて手塚治虫という天才について書きたい。
「鉄腕アトム」のメッセージは「科学と人間のディスコミュニケ―ション」だった。
- 「描きたかったのは、一言で言えば、科学と人間とのディスコミュニケーションということです」。自分で考えることができ、感情もあるロボットであるアトムは、人間らしくなりたいと学校に通うが、人間とくらべて能力が突出していることを知る。そのことで「非常に疎外感を味わうわけです」。アトムが人間への疎外感を感じるところには気が付かなかった。
- ところが、当時は「科学の力という点だけ強調されてしまった。たいへん残念でなりません」と語っている。私も誤解していた。
- そして、「いま地球と人類にそれ(ディスコミュニケーション)が起きてる。もっと地球の声に耳を傾けるべきだと思うのです」。それが亡くなる直前のバブル崩壊の直前の言葉だった。
(1989年4月30日発行「ガラスの地球を救えー二十一世紀の君たちへーー」より
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松尾豊(東大教授)
- AIは身体性も獲得できる。
- AGI(汎用人工知能)の成立は2030年代前半に達成。Artificial General Inteligenc
- 人間の脳もつくることができる。その先の「生命」にまで到達できるかは不明。
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「名言との対話」7月18日 宮本顕治「人間は覚悟をきめるということが大事なんです」
宮本顕治(みやもと けんじ、1908年10月17日―2007年7月18日)は、日本の政治家、文芸評論家。享年98。
山口県生まれ。貧しい家庭に育ち、「なぜ世の中には金持ちと貧乏人がいるのか」と疑問を抱く。徳山中学を経て松山高校へ進学し、当初は柔道部に所属したが途中で弁論部に転じた。東京大学経済学部在学中には、芥川龍之介論「『敗北』の文学」(原稿用紙50枚)で総合雑誌『改造』の懸賞論文一等賞を受賞。次席は「様々なる意匠」で一等賞を確信していた小林秀雄であった。
1932年、党の同志で9歳年上の小説家・中条百合子と結婚するが、2か月後に百合子が検挙される。1933年に地下に潜行するもスパイの密告で逮捕。1934年、獄中で正式に入籍した。百合子は終生、宮本を支え続けた。
宮本は「拷問はきつかったが、受ける側には肉体的限界があり、失神してしまえば続けても意味がない」と回想している。体重は60キロから40キロまで落ちた。未決囚の期間は時間があり、運動に励むかたわら党の発展の可能性について洋々たる展望と希望を抱き、人類の遺産たる優れた書物を体系的に学んだ。
終戦後の1945年10月9日、12年間に及ぶ監獄生活を終え、網走監獄から出所したときには37歳になっていた。二人が交わした約900通の書簡は、1951年に百合子の没後『十二年の手紙』として刊行されている。
1950年の党分裂を経て、宮本らはソ連や中国に相談せず、日本独自の綱領を策定した。科学的社会主義の理論を日本の現実に創造的に適用し、敵をアメリカ帝国主義と日本独占資本と規定する政治路線である。この自主独立路線のおかげで1960年代の中ソ対立の際にも党方針は揺らがなかった。宮本は1958年に書記長、1970年に委員長、1982年に中央委員会議長に選出された。
1997年の第21回党大会閉会あいさつで、不破哲三委員長は「宮本前議長が党の中央委員会に参加したのは戦前の1933年。それ以来64年間、ほぼ三分の二世紀という長期にわたり党の指導の先頭に立ってきました」と讃えた。宮本はその後、名誉議長となる。
読了した著書『宮本顕治青春論』では、「知的目ざめによって自分たちの生涯を飾る青春を本当に光あるものにしようではないか」と、1982年の「ヤング・ジャンプ’82」での講演で若者に呼びかけている。日本共産党委員長だった志位和夫は宮本の長男・太郎(1958年生まれ)の家庭教師であった。太郎は北海道大学大学院教授を経て、現在は中央大学法学部教授。
晩年は東京都多摩市連光寺の自宅で療養生活を送り、2007年(平成19年)7月18日、老衰のため渋谷区内の病院で死去した。享年98。
長州という風土は明治の元勲を生んだが、同時に宮本顕治のような筋金入りの共産主義者も生んだ。長州には二つの筋があったのである。戦前・戦中の監獄での拷問に耐えた12年間の宮本を支えたものは「覚悟」と「希望」であり、それがその後の長い政治生活の基盤であった。