知研読書会:「五木寛之傑作対談集」①②を対象とした読書会。
都築さんは松本清張、深谷さんは横尾忠則を取り上げた。私は外国人との対談を取り上げた。フランソワーズ・サガン、モハメッド・アリ、ミック・ジャガー、キース・リチャーズの4人。
生涯で2000人に及ぶという対談をこなしてきた五木寛之という作家の幅の広い好奇心と活動、そして対談のノウハウを知ることができた。対談相手たちは満足している様子がわかる。
◎フランソワーズ・サガン33歳
- サルトルは知性がありすぎるからこそ、その知性の過剰のゆえにこそ間違いを犯し、またどしどし変わっていく
- 人間が行動するとき大事なことは、この自分がいま何をするか、という、そのことだけじゃないのかしら。
- マルキシズムの哲学というものは、個人というかけがえのない存在を考慮にいれていません。
- ●最後:こんな仕事ばかりだったら、どんなに楽しいことでしょうに。こんどはお忍びで来なくちゃね。
- 〇花を贈る。
- 〇始まり:「パリに負けないディスコもある」「ディスコ?(目を輝かせて) 行きましょうよ。そこへ」「残念ながらそうもいかない(笑い)
- 〇同世代?ヘンリーミラー?原作と映画?5月革命の時の発言?本の中の発言?「覚えていない」。サルトルとボーヴォワール?
- 〇対話:交通事故。ドストエフスキー。ヘミングウェイ。アラン・ドロン。
◎モハメッド・アリ
- アメリカの文化的影響が入る以前の日本の方が文化的であったと言える。
- ●きょうここで受けたような質問は、今度日本へやってきてから、これまで一度もきかれたことのないような種類の質問でした。
- 〇食物?「豚肉。エビ)。清潔な生活?「精神と生活の集中」「酒、麻薬。自分を尊敬するよう自分で教育」「一国は女性の偉大さで示される」最初の記憶?「4歳のときのリンゴの木」。なぜボクシングを?「独り。高報酬」
- 困るのは一度でかい金をかけると、次はもっとすごいものを、と期待されることなんだ。
- 〇ワルシャワ。モスクワ、本。
- ●最後:サガンとの対談「ディスコにいってインタビューはそこでやりましょう!」って立ちあがったんでプロモーターがびっくりして、、。(爆笑)
- 面白い相手となら人間同士の会話になる。曖昧なタイトルやフレーズが好きなんだ。
- 自分のやることが、もし少しでも人々に幸せをもらたらすことができたなら、、
- 人間は生きるために、空気と、水と、食物と、そして音楽が必要だ。
- ●楽しかったよ。アドレスと電話番号をくれないか。もし今度、ふらっと日本へやってきたとき、電話をかけてもいいかい?
- 〇マイク・タイソンの試合の「君が代」?「Roling StoneとRock」。インタビューされるのは?ビデオをみ見たが?クリス・バーナーのバンド?男らしさ?「愉快なインタビューができました。ありがとう」?

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「名言との対話」10月30日。 白川静「洞門は開かれておらず、急遽帰洛して鑿(のみ)を振るわねばならぬ」
白川 静(しらかわ しずか、1910年4月9日−2006年10月30日)は、日本の漢文学者・東洋学者。享年96。
若き日に「一生、読書をし続けよう」と決心する。崩壊し続ける「東洋」の原像を求めようとし、世界で最も古い歌謡集とされる『詩経』と、日本の『万葉集』という希有の古代文学の比較研究を行う。中国と日本の古代文化に共通する東アジア的特性に着目し、わが国で概念として発明された「東洋」の出発点を探った。20歳前後のことだ。
約3000年前の甲骨文や金文といった中国古代の文字を、トレーシングペーパーで写し取り、何万枚も写す作業をコツコツと続けた。45歳のとき、「口」が「くち」ではなく、神への手紙を入れる器「さい」であることを発見する。1954年に教授に就任するが、人より10年遅かった。大学卒業が10年遅いのであるから、人より10年長く仕事をする以外にないと考える。
60歳になった頃には、100本を超える研究論文を発表していた。「学問の成果は、普通の人にもわかるものでなくてはならない」として、初めて一般向けの本『漢字』(岩波新書)を書き、多くの読者を得た。
65歳で定年となる。その後、70歳まで特任教授、73歳まで大学院で教える。そして73歳でやっと自由の身になる。「一歩ずつ運べば、山でも移せる」と考え、『字統』(6800余字)、『字訓』(上代語1800余語)にはそれぞれ2年、『字通』(見出し漢字総数約1万字の漢和辞典の最高峰)には6年、合わせて10年の計画を立てる。毎日毎日、同じペースで書き続け、5万枚を超える原稿をひとりで書き上げ、13年半かけて3冊の字書を完成させる。ページ数の合計は3,000ページを超える。これによって毎日出版文化特別賞、菊池寛賞、そして三部作の完成で朝日賞を受賞する。
89歳の時には、著作集全12巻の編成や既刊の再編集という計画を立てた。月1冊のペースでも5年はかかる。仕事の継続には、適度の緊張を保てる定期的な企画を持つのがよいとして、年4回、5年で完結する「文字講話」を企画した。
「愚かしい戦争」で敗れたのちの戦後国語政策、とりわけ当用漢字(1850字)への制限を批判している。「おもう」は「思う」だけになり、「想・念・憶・懐」といった字に「おもう」という訓は与えられなくなった。努力しないで習得される程度のものでは、優れた文化は生まれない。漢字の活性化による過去の豊かな文化の回復を目指すべきであり、源泉としての古典を大事にすべきだ。「衰えている漢字を復活させれば、漢字を使い続けてきた東洋の国々も復活できるはずだ」と考えた。
74歳で初めての賞となる毎日出版文化賞特別賞(1984年)を受賞。以後、菊池寛賞(1991年)、朝日賞(1996年)、京都府文化特別功労賞(1996年)、文化功労者(1998年)、勲二等瑞宝章(1999年)、第8回井上靖文化賞(2001年)、福井県県民賞(2002年)を受け、94歳では最高峰の文化勲章(2004年)を受章している。
志を決め、不断に計画する。構造的・体系的に捉え、歴史的に展開するものとして見据え、そのうえで解釈学的に問題を考える——それが白川静の研究法だった。「洞門は開かれておらず、急遽帰洛して鑿(のみ)を振るわねばならぬ」は、菊池寛賞授賞式での挨拶の言葉である。中津の「青の洞門」を題材にした菊池寛『恩讐の彼方に』の主人公・禅海和尚に自身をなぞらえた。約250年前、人びとの往来のために、岩をのみだけで約30年かけて掘り抜いた。白川静はその禅海和尚の心境で、コツコツとのみを振るい、96年の生涯を全うした。高齢化社会に生きる人びとに勇気を与える生き方である。


