『戒語川柳』ーー3月の例会に向け12句を投稿「才能」「最高」「さっぱり」「探す」

3月の川柳12句を送付。できはよくないが、締め切りがあるから、句ができる。ともかく年間144句はできるからありがたい。私が「吐鳳」という柳号で刊行した『戒語川柳』はいつのまにか5冊となった。

この『戒語川柳』というタイトルは、自分を戒めるという意味を込めている。今回の「才能」「無事」「「こだわり」「自分探し」は、戒語である。

(才能)才能を 疑う人は 脈がある

(最高)とにかくも 無事であるなら まあいっか

(さっぱり)笑顔あり こだわりのなさ ありがとう

(探す)見つからぬ 自分探しで 途中下車

『戒語川柳』として、2019年版から始め2023年版まで刊行している。2024年版の6号、2025年版の7号にとりかかることにしようか。1年100句だから、2028年版の10号まで続けると1000句になる。

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朝はヨガを1時間。普段は男性5人だが、今日は2人が欠席で3人。

ウォーキング8500歩。

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3月14日。五十嵐健治。福原義春。

橋本文雄「ええ音やないか!」

福原義春「私にとって完成はない。いつも次々と違った分野に取り組んで完成を目指して勉強している過程なのである」

川上瀧弥「マリモ」

豊田穣「死ぬならば、美しく死にたいものだ。海の上にただ一つの紋章を残して」

佐々木象堂「瑞鳥」

五十嵐健治「人が嫌がる仕事であれば、競争する相手も少なく成功しやすいのではないかと考え、明治39年3月、洗濯屋を始めることにしました」

芦田伸介「次々と私の人生という名の『舞台』に登場してくる『名優』たちのおかげで、私の『人生劇場』が波乱万丈になった」

大沢啓二「喝!」

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『新・代表的日本人』 3月14日。五十嵐健治「人が嫌がる仕事であれば、競争する相手も少なく、成功しやすいのではないかと考え、明治39年3月、洗濯屋を始めることにしました」

五十嵐健治(いがらし けんじ、1877年3月14日 - 1972年4月10日)は、日本の実業家であり、白洋舍の創業者である。享年95。

五十嵐健治は、わが国で初めてドライクリーニングを実用化した人物として知られる。敬虔なクリスチャンとしての信仰生活が、その事業展開を支えた。

2017年3月、五十嵐健治洗濯資料館を訪問した。以前、講演で訪れたことのある下丸子のキヤノン本社の向かいに広がる事業所の一角に、この資料館はある。洗濯業界最大手の白洋舍の創業者を記念した施設であり、企業ミュージアムでもある。白洋舍は、平成26年度には売上高465億円、営業利益10億円、経常利益11億円を計上し、従業員数も2000人規模に達していた。

小説家・三浦綾子が序文を寄せた五十嵐の自伝『恩寵の木漏れ日』(同信新書)には、波乱に満ちた人生の軌跡が、誇張なく淡々とした筆致で綴られている。高等小学校で学業を断念せざるをえなかった彼は、「実業について立派に立身出世をして、五十嵐家を再興してみせる」と決意して上京する。

その後、18歳で日清戦争の軍夫となり、戦後の三国干渉に憤激して、ロシアに入国する志を抱き北海道へ渡る。ところが、だまされて開拓地の監獄部屋で働かされることになった。しかし彼は寝間着一枚で70キロを走って脱出する。その体験から得た教訓は、「どんなつらい仕事でも、監獄部屋の仕事にくらべれば遊んでいるようなものだ」というものだった。

たどり着いた小樽の旅人宿で働き、そこでクリスチャンの行商人・中島佐一郎から洗礼を受ける。彼は、「キリストの愛を味わわせるために、生まれてから19年の間、もろもろの試練を賜った」と述懐し、「いかに善き生活をなすかということが大切であると思うに至った」と記している。

函館では洗濯屋の水くみ仕事を手伝った。その後、牧師を志して上京するが神学校には入れず、三井呉服店(三越)に入社する。「10年辛抱しよう。そしてその間に独学で勉強し、聖書も学び、30歳になったら伝道の御用を始めよう」と決意する。そして10年間、一日3時間以上の読書時間を持ち続けた。「人の信用を受けるのも、不信用を招くのも、平素の心がけ一つである」とし、それも信仰の賜物だと述べている。

白洋舍の事業は、時代の追い風と逆風の中で発展していく。爆発事故という災難に見舞われたときには、「主、その愛する者を懲らしめ、すべてその受けたもう子を鞭打ちたまえばなり」という聖書の一節に励まされた。また、「学術を基礎として技術を磨き、科学的・合理的に経営するのでなければ、真実の発展を見ることはできない」とも語っている。

ドライクリーニングと洗濯が完全に行われるなら、衣服の消耗は少なくとも1割以上防止できると考え、それを実践した。関東大震災では大損害を受けたが、五十嵐は「人生はひっきょう難関の連続である」と達観している。

キリスト教信奉者らしいのは、『家庭と洗濯』『お台所』といった雑誌を発行して啓蒙に努め、安全啓発活動にも熱心であり、さらに「白洋舍化学研究所」を設立するなど、啓蒙家としての側面も持っていたことである。「家庭安全協会」を設立するなど社会活動にも尽力し、晩年には産業安全功労者として勲三等瑞宝章を受章している。洗濯業の社会的使命を強く意識していたのだ。

社長退任後は、福音伝道に専念しようと夜間神学校で聖書を学び、66歳でギリシャ語の学習にも取り組んだ。戦後は日本各地を旅して福音を語った。95歳の生涯であった。

「計画魔」であった五十嵐は、三越で10年働いたのち、「クリーニング業こそ、神と人に仕える天職である」と信じ、30歳で独立して白洋舍を創業する。「人の好まぬ営業の方が自分には適するらしい。……当時は清掃業か洗濯業であった」。「神から与えられた聖業である。よし、この洗濯業に生涯を打ち込んでやっていこう」。

人の垢を洗うという、人が嫌がる仕事を「聖業」として引き受けた。その生涯を貫いた結果、五十嵐健治は、まさに「聖人」と呼びたくなるような人物となったのである。