サントリー美術館「小田野直武と秋田蘭画」展

サントリー美術館で開催中の「小田野直武と秋田蘭画」展。

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小田野直武(1749-1780)の名と絵画は、秋田の角館で聞き、観たことがある。

どうして秋田の地で蘭画が栄えたのか、不思議に思ったことを思い出す。

小田野直武は秋田藩の角館で生まれ狩野派の絵画を学んでいたが、1773年に銅山開発(長崎のオランダ貿易では銅が用いられていた。半分は秋田藩)のために招聘された平賀源内と出会い、西洋画の理論と手法(遠近法、陰影法)を教えられる。線よりも色彩や明暗によって自然の形態を正しく表現すべきである。

それが縁で25歳で江戸に派遣され、8ヶ月後には杉田玄白らが刊行した「解体新書」の挿絵を任されるまでになる。直武は毛筆によって挿絵を丹念に模写していった。玄白42歳、直武26歳であった。

1770年には徳川吉宗が洋書の解禁を断行した蘭学の風が、医学、物産、そして絵画の世界にも吹いていた。

直武は西洋と東洋の美術の融合した蘭画を生み出した。その画風は、秋田藩主の佐竹燭山(1748年生)や角館城代の佐竹義躬(1749年生)らへ波及し、秋田蘭画と呼ばれる画風となった。当世の絵画は写実性にかけていた。調度品としての観賞性と博物学的な西洋式写実性(遠近法)を融合させたのである。この秋田蘭画は後に銅版画や油彩画を描いた司馬江漢に引き継がれた。

秋田蘭画は近代の夜明けのひとときの光芒を放ったのである。歴史の中で忘れられていたが、日本画家・平福百穂の「日本洋画の曙光」(岩波新書)で評価された。近代美術の始まり、日本の洋風画のさきがけという位置づけになった。

1779年には藩主から遠慮(謹慎)を命じられ、また病を得て帰郷し、翌年に32歳で亡くなっている。君公に直諫したための沙汰であった。内容は藩の財政、あるいは君公の御行跡に関することであったといわれている。直武の没した翌日に沙汰が解け出府せよとのご沙汰が解けたことを知った父は残念のあまり発作的に精神の異常をきたしたという。

 

「名言との対話」12月26日。白洲正子

「今は命を大切にすることより、酒でも遊びでも恋愛でもよい、命がけで何かを実行してみることだ。そのときはじめて命の尊さと、この世のはかなさを実感するだろう」

白洲正子(1910−1998年)は、昭和-平成時代の随筆家。明治の元勲・樺山(かばやま)愛輔の次女。白洲次郎の妻。女人禁制の能舞台に演者としてはじめてたつ。昭和18年「お能」を刊行し,「能面」「かくれ里」で読売文学賞を2度受賞。古美術,古典文学,紀行などはばひろい分野で活躍。88歳で死去。アメリカのハートリッジ-スクール卒。「お能」を刊行し,「能面」「かくれ里」で読売文学賞を2度受賞しているなど古美術、古典文学,紀行などはばひろい分野で活躍した。

1910年生まれの白洲正子は、1964年に西国三十三カ所の巡礼の旅に出る。正子54歳。この観音巡礼は日本古来の自然信仰に源があることを確認する。「自分が行くべき道ははっきりと見えてき来た」と正子は述べている。「白洲さんにくっついて行った巡礼の終わりになって、その旅が実は自分を発見する旅だったことに気づくはずである。「「西国巡礼」を読む喜びは、白洲さんとともに己を発見する「道行」を重ねることだと思う」。白洲正子の「西国巡礼」の中で多田富雄が、巡礼とは自己発見の旅であると喝破している。そうか、巡礼は自己発見の道行(みちゆき)なのか。

命をかけて、命を燃焼させて、何ごとかを為せ。そのとき初めて命の尊さ、そしてはかなさがわかる、という。晩年に近づくほどいい仕事をした白洲正子のこのメッセージは重く響く。

 

「副学長日誌・志塾の風161226」

家内も一緒に、学長室のメンバーとの慰労会。

途中で、学長からの電話あり。「ありがとね」。年末の収録を終えて明日から海外へ、とのこと。

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