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「篠山紀信 写真力」展(横浜美術館)

5年前の2012年に東京オペラシティでみた企画展を横浜美術館でみた。

内容は同じだった。今回は前回に加えて、篠山本人の言葉をピックアップ。

・「僕はその時代はその時代のカメラで撮るのが一番いいと思う」

・「いや、芸術よりもっと上にあるものでしょう。写真の中に芸術的なものもあるというだけ。、、写真=芸術だったら写真に失礼です。、、、写真はもっともっと大きなものですよ。」

・「嘘X嘘は本当になる。、、、、作られたフィクションを写真によってよりフィクションにする。そこに真実がある。、、、」

・「ようはお座敷次第でね。、、、仕事が来るたび「それならばこういうふうにやったら面白いんじゃない?」というふうに考える。、、」

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2012年のブログから。

初台の東京オペラシティアートホールでで開催中の「篠山紀信展 写真力」を観る。

いきなり三島由紀夫の死の直前に撮った縛られて死を迎えた裸の写真と日本刀を持って構える三島の殺気溢れる大きな写真をが目に飛び込んできて驚かされる。大きい写真はやはり圧倒的な迫力で迫ってくる。
篠山紀信(1940年生れ)は、50年に亘って衝撃的なメッセージを送り続けてきた写真家だ。回顧展を一切やらなかった篠山が初めて放つ美術館を使った写真展である。

テーマとなっている「写真力」について篠山はこう言っている。
「写された方も、撮った者も、それを見る人々も、唖然とするようなスゲー写真。、、時空や虚実を超えて、脳裏に強くインプットするイメージの力が写真力ってわけだ。、、、人知を超えた写真の神様が降りて来なくちゃ、すごい瞬間は立ち現れないんだもの。その為には、あらゆる努力をする。、、、、」

 

GOD(鬼籍に入られた人々)。美空ひばり三島由紀夫、大原れいこ、勝新太郎武満徹、、、。
STAR(有名人)。吉永小百合、澤 穂希、王貞治、。
SPECRACKLE(夢の世界)。ディズニー、大相撲、刺青の男たち、歌舞伎、リオのカーニバル、、。
BODY(裸の肉体、美とエロスと闘い)。宮沢りえ、ウラジミール・マラーホフ、、。
ACCIDENTS(東日本大震災被災者)。

 

生々しいメッセージ、大きな迫力で迫ってくる生き方、生命を感じる裸体、極限の筋肉の裸体、不動の伝統と歴史の力、、、。確かに「写真力」という言葉に納得する企画展だった。

 

・ハッと感じたら、グッと寄って、バチバチ撮れ!ハッと感じる自分の完成を磨く。いい音楽を聴く、好きな芝居を見る、ふらっと旅に出る、いい女と付き合う、うまいものを食う、、、なんでもいいんだ、いいものに、敏感にハッと感じる感性を身につけよ!

・仮面の上に仮面をつけることこそ、その人のリアリティを獲得することだと思っている。

 

篠山は日大芸術学部写真科在学中から広告制作会社で仕事をし、第一回日本広告写真家協会展公募部門APA賞を受賞している。卒業後は、1966年26歳、日本写真批評家協会新人賞。1970年30歳、日本写真協会年度賞。1972年32歳、芸術選奨文部大臣新人賞。1973年33歳、講談社出版文化賞。1979年39歳、毎日芸術賞。1998年58歳、国際写真フェスティバル金賞。

こういう素晴らしい経歴であるが、時代の最先端を走るメディアで世間を驚かせてきた。シノヤマの名前は同時代を生きる私たちには馴染みが深い。

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「名言との対話」2月19日。コペルニウス「太陽は宇宙の中心であって不動であり、太陽の運動と見えるものは全て実は地球の運動である」

ニコラウス・コペルニクスラテン語名: Nicolaus Copernicus、ポーランド語名: ミコワイ・コペルニク Mikołaj Kopernik、1473年2月19日 - 1543年5月24日)は、ポーランド出身の天文学者カトリック司祭である。当時主流だった地球中心説天動説)を覆す太陽中心説地動説)を唱えた。これは天文学史上最も重要な発見とされる。

1512年には太陽中心の宇宙観を周囲に述べていたが、表だって公表はしなかった。コペルニクスは聖堂参事会員というカトリックの側の人でもあったからでもある。30年後の息を引き取る数時間前に6巻の著書「天球回転論」が枕元に届いた。その後、地動説は旧教・新教双方から非難を浴びた。コペルニクスは極めて慎重で臆病な人だった。

一世代後に地動説を唱えたブルーノは火あぶりの刑、天文学の父・ガリレイは宗教裁判で有罪となり地動説を抛棄する。宗教改革の立役者・ルターもコペルニクスを阿呆と呼んでいた。地動説が実践的に証明されるのはコペルニクスの後3世紀を要するのである。

今となっては、「太陽は宇宙の中心であって不動であり」は間違いであった。しかし地動説は常識となった。後にカントが対象の認識は主観の構成によって初めて可能だとする自らの哲学を天動説から地動説への転回にたとえコペルニクス的転回と呼んだ。40歳前に地動説を確信し、70歳で亡くなるまでその説を深化させ大部の書物にまとめあげる。そして死と同時に、衝撃の書を発表するコペルニクスの人生戦略にも驚かされる。