熊谷恒子記念館--「かな書家」の第一人者「本建築は自力でしなければならぬ」

大田区立熊谷恒子記念館。

川端龍子記念館から歩いて数分の住宅街の高台に熊谷恒子が住んでいた住宅が記念館として開放されている。

 この界隈は「馬込文士村」と呼ばれていた一角である。大正時代から昭和初期にかけて、山王から南馬込一帯に多くの文学者や画家が住んでいた。

 熊谷恒子(1893-1986年)は、書壇で活躍した「かな書家」の第一人者である。

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 平安朝のかな「上代様」を書道芸術最高のものとして、手本を真似る臨書を繰り返す主義であった。題材は四季の風情を詠む詩や歌であった。

 京都生まれで結婚によって東京に住み、子どもに習字を習わせることになり、自分も稽古につきあって川北先生に漢字を習う。35歳であった。

次に仮名分野で今行成といわれる尾上柴舟先生の門をたたく。先生は漢字を教えぬというので、先生のお許しをもらって、岡山高蔭先生に師事する。そこで仮名へ開眼する。先生の逝去後は、古筆をたよりに、ひとりで勉強を続ける。

45歳ころに、目を患い、緑内障で右眼を失明。書を志すものにとって致命傷だが、夫は「片目見えればいいではないか」と励ましてくれた。そして趣味がいつしか生涯の仕事となった。 

63歳、大東文化大学講師。74歳、教授。82歳までつとめ続けている。

72歳、皇太子妃美智子殿下への書道ご進講。

74歳、勲五等宝冠章。87歳、勲四等宝冠章

80歳、夫・四郎没(享年86)。

89歳、「卒寿記念・熊谷恒子展」。

93歳、永眠。

 

「いろはから基礎をしっかりと身につけ、古典を十分に知った上で既存のものを打破して違ったものを考え出す。あるいは新しいものを創り出すと言うことが創作の一般と言えましょう」

「齢すでに七十を過ぎたのに今もって、せめて自分だけでも会心の作と思われる作品を生みたいと願っているが、出来ない私はこの道は他力本願であってはならないと思っている。礎石は出来ても、本建築は自力でしなければならぬ。全部借金して家を建てて人に誇っても、内心やましい気持ちがすることと思う。一にも勉強二にも勉強、私は若い人々にこの事を申し上げたい」

生前の写真をみると、実に品のよい婦人である。「歳をとったら恒子先生のようなお婆さまになりたい」と弟子達が話し合っていたという。

高台にあり見晴らしの良い記念館の庭には、風格のある百日紅の木と、梅の花が咲いていた。

 絶筆は「ありがとう」の文字だった。

「あ利可とう 恒 九十三」

 記念館の二階には、座って墨で書を書けるようにしつらえてあった。

私の座右の銘「今日も生涯の一日なり」と書いたら、熊谷恒子の落款を押してくれた。

 

「名言との対話」3月5日。奥村綱雄「運と災難は紙一重である」

奥村 綱雄(おくむら つなお、1903年明治36年)3月5日 - 1972年(昭和47年)11月7日)は、昭和期の実業家。野村證券元社長・会長。野村證券中興の祖と言われる。

「ひとつ上の仕事をやれ。社員は主任、主任は課長の、課長は部長の、部長は役員の、それで初めて大きな仕事ができる」

「会長ほど難しい仕事はない。だいたい仕事を抱えるのは容易であり、仕事を離れるのは難しい。忙しい忙しいといえるのは結構な話で、仕事から浮いてしかも仕事をつかんでいることはなかなか凡人には無理なことである。だがこの難しさをやってのけなければ、本当の会長にはなれぬ」

「ダイヤモンドは中央の面を囲み、多くの面が多角的に集まって底知れぬ光を放つ。会社経営もまたかくありたい。一人の独裁でもいけないし、多数の悪平等でもいけない。個が集まって全を形成するが、個は全あっての個であり、個あっての全ではない」

1946年の公職追放で経営陣が退陣することになり、出世が遅れていた奥村は追放を免れ、専務を経て、2年後には45歳の若さで社長に就任する。まさに運命は紙一重である。トップにならんとして討ち死にした人には未練が残るが、たまたまその役割がまわってきて名経営になることがある。奥村もそうだが、そういう人はその運を全体のために思い切って使ったのだろう。