文化の日も授業:朝は学部「立志人物伝」。夜は大学院「立志人物論」。

11月3日は、「文化の日」。でも大学は授業がある。

午前。

・客員の久米先生と楽しく懇談:エニアグラム、、、。

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授業「立志人物伝」。本日のテーマは「怒濤の仕事量」。

紹介した人物は、漫画家。手塚治虫石ノ森章太郎。藤子不二夫。赤塚不二夫米沢嘉博明治大学「マンガ図書館」創設)。長井勝一(「ガロ」初代編集長)。

 

午後:六本木の国立新美術館で開催中の「安藤忠雄 挑戦」展。

目玉の「光の教会」をみる。回顧展でなく、「挑戦」がキーワードなのがいい。

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夜:品川キャンパスで大学院の授業「立志人物論」。今回のテーマは「持続する志」。

・運慶展。安藤忠雄展。ゴッホ展。来週は、石橋湛山鈴木貫太郎を予定。

・名言:中江兆民ミッテラン河上肇

・「持続する志」の講義:牧野富太郎大山康晴原敬池波正太郎。市川房江。宮城まり子羽仁もと子。講義と動画で解説。話し合い。「心が豊かになる授業」という声も。

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 以下、受講生の感想。

本日も貴重な講義をありがとうございました。池波正太郎の、「顔というものは変わりますよ。だいたい若いうちからいい顔というものはない。男の顔をいい顔に変えていくことが、男をみがくことなんだよ」という言葉が胸に突き刺さった。自身の面構えの甘さは日々行じることが足りず、真剣勝負をしていな証拠だと思う。人間的な深みを増していきたい。そのためにも、毎日の日誌を書くようにして(宣言します!)、毎日を振り返ることから始めたいと思う。

本日もありがとうございました。以下感想です。今回は大山康晴名人が一番印象に残った。29歳で名人になりその後長らくタイトルを保持していたが50歳にして無冠となる。本来ならここで引退し解説などへ進むのが一般的だと思うが、再起を誓い棋士としてまた勝負の世界に身を投じていく姿勢には感銘を受けた。私は勝負師というと個人種目のスポーツ選手や競馬のジョッキーなどを思い描いていた。また棋士については確かに勝負師ではあるが将棋しかできない人というふうに思っていた。しかし今回の講義で棋士の名言という動画を観てそのイメージはかなり変わった。「努力は嘘をつかない。ただその前には、長い目で見れば、という言葉がつく」「真剣に考えれば前進し、深刻に考えれば停滞する」「前進できない駒はない」など多くの棋士が人間として深みのある、共感できる名言を残しており、人間として、勝負師としての魅力を感じた。将棋の世界にはあまり関心がなかったが、これからは現在活躍している棋士の人物像について知りたいと思った。以上になります。次回もよろしくお願いします。

今日の授業の感想。大山康晴将棋棋士であるが、賞はごほうびであはなく、激励のしるしである。との言葉は自分のことと対照して考え深かった。われわれも人道援助や救命救急で何度もなく行政から表彰状や感謝状をいただきましたが、いただくことはわれわれの仕事を評価していただいたと素直に感謝します。しかし心の中ではいただいた以上これ以下の仕事はできないといつも思っています。たくさんの賞をいただけばいただくほど質の高いよい仕事をしなければならないと思います。毎回非常にためになることを教えていただきます。ありがとうございます。

今日の講義もありがとうございました。大山康晴は29歳で名人位に就いた天才棋士である。21年経つ、50歳で無冠になった。一般にはこの年齢が引退すべきが、大山康晴が人生に再出発した。「賞はご褒美ではなく、激励のしるしである」「一時の光栄を求めるより、長く続けることが大切」と話して、自分自身がこの信念を貫徹する。63歳のち機、当代の名人に挑戦して、一番年長な名人挑戦者になった。また、66歳の時、当代の棋王に挑戦して、一番年長な公式戦の挑戦者になった。69歳でA級在籍のまま死去した。一生はたくさんの名誉がもらったのに、満足できなかった。自分自身の全てが将棋に捧げ、自分の道が最後までも終わらず。私は心から尊敬の念を抱いている。

久恒先生、第4回の講義、ありがとうござい ました。今回も、文字で偉人の人生に接触し、色々な名言を勉強しました。大山康晴の「一時の栄光を求めるより、長く続けることが大切」という言葉が、「ブランド戦略」の授業を連想させました。一般的に小企業が目下の利益を追求する傾向にあります。それに対して、大手が長期計画、ブランド戦略を立てて、長い目で見た利益を求める特徴があります。確かに、小企業が人力や財力などに制限されます。だが、長期のもくろみが企業成長への重要性が無視できないことが事実だと思います。

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「名言との対話」11月3日。武田信玄「一日ひとつずつの教訓を聞いていったとしても、ひと月で三十ヵ条になるおだ。これを一年にすれば三百六十ヵ条ものことを知ることになるのではないか」

武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ。 1521年12月1日(大永元年11月3日--元亀4年 4月12日(1573年5月13日))は、戦国時代の武将甲斐守護大名戦国大名

越後国上杉謙信と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え信濃駿河、西上野、遠江三河と美濃の一部を領し、領国を拡大したものの、西上作戦の途上に三河で病を発し、5月13日、信濃で病没した。

希代の名将であり、また信玄堤をつくるなど領国経営の達人でもあった信玄には、人心を集めるにあたっての名言が多い。「人は濠(ほり)、人は石垣、人は城、情けは味方、仇(あだ)は敵なり」「四十歳より内は勝つように、四十歳よりは後は負けざるように」「戦での勝ちは、五分をもって上とし、七分を中、十分をもって下とする」「いくら厳しい規則を作って、家臣に強制しても、大将がわがままなる振る舞いをしていたのでは、規則などあってなきがごとしである。人に規則を守らせるには、まず自身の言動を反省し、非があれば直ちに改める姿勢を強く持たねばならない」こういう言葉を眺めていると、武田信玄は、相当な人間通であったと思わざるを得ない。

軍師・山本勘助が書き、信玄自らが加筆して成立した心得集で、若い武士を対象とした日常生活の心得や守るべき常識を平易に記した「武田家百目録」(甲府武田神社で購入)などで、信玄の人生観はわかる。「朝の目覚めの方法。胸から臍の下まで3回なでおろし、臍下三寸の丹田をしっかりおさえてから起き上がれ」「寝床の上にあぐらを組み、その日の用事を心に描き、整理し、順序を立てて、寝床を出よ」「目の中はよく洗え」「寝る前に「便所へ行って、その日一日の仕事の内容を書く印紙忘れていることは記録して枕元へ置き、翌日真っ先に区切りをつけよ」「晴れ晴れとした気持ちで丹田を押さえ気持ちを落ち着かせて寝る」「枕元に干し飯、金銭、梅干し、樫の棒、草鞋2足をそろえよ」「得意の仕事を申しつけよ」「身辺の出来事をむやみに語らず慎み深くせよ」「金を貸すときは助け与える気持ちで」「一歩一歩歩みを踏み固め、段々と稽古に励め」、、、。

そういった心得のなかでも私が気に入っているのは、1日1つを続ければ1年で365になるというこの教訓である。ものごとは一気になるものではない。「一日一つ」ということの凄みを信玄はよく知っていたと思う。心したい名言だ。