「超絶技巧を超えて 吉村芳生」展(横浜そごう美術館)--鉛筆画の巨匠

横浜そごうのそごう美術館の「吉村芳生」展。

吉村芳生は鉛筆画による細密描写の画家。「超絶技巧を超えて」というサブタイトルもさもありなんという感じの画家だった。

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 1950年山口県で生まれる。初期には新聞紙、金網、風景、身のまわりの日常品などをモチーフとして鉛筆でモノクロ作品を描く。1970年代、80年代は、現代美術展や版画ビエンナーレで入選を重ねる。1985年に故郷の山口県徳地に移住し、モノクロ表現に難しさを感じてスランプ。コスモスの花との出会い。色鮮やかな花や、花畑などを描くようになる。1990年代は個展が中心。2007年に「六本木クロッシング:未来への脈動」展(森美術館)で注目された遅咲きの画家だ。2011年から1年間、パリに在住。2013年、63歳で没。

「新聞シリーズ」は20歳から。

「友達シリーズ」。「友人たちのたちの魂まで写し出したかった」「作者自身の自分の存在感を確かめたかった」。写真を撮ってはがき大の作品に仕上げる。自身をめぐる友達の表情が自分を描くことになっている感じがする作品群だ。

「365日の自画像」。9年かけてカメラで撮った自分の顔を鉛筆で転写。自画像がライフワーク。

「新聞と自画像」。2009年の1年分の新聞の一面を描き、それいさまざまな表情の自画像を重ねた作品。「新聞は社会の自画像、自画像と同じ」。

「色(カラー)は横の広がり。色一つ一つには感情みたいなものがでる」(色を使うことには否定的)。インドで神像を描くころから色鉛筆を使うようになる。1990年頃から色鉛筆で花を描くようになるファーバーカステル社製の120色の色鉛筆。カメラはニコ1990年頃から色鉛筆で花を描くようになる。「色鉛筆はみているだけで楽しくなります。花々もそうです。花々と色鉛筆って何か引き合うものがあります。その間に自分が居る、そんな絵が描ければと思います」

写真を撮ってそれを見ながら機械のように描写する。「目を、手を、ただ機械のように動かす。機械が人間から奪った人間の感覚を取り戻すような気がする」

「僕は小さい頃から非常にあきらめが悪かった。しつこくこだわってしまう。僕はこうした人間の短所にこそ、すごい力があると思う」。(2010年12月4日の朝日新聞

「退屈だとして切り捨てられる日常のひとこまから、非日常な新鮮味を発掘してみせる。それが芸術の力でしょう。一輪の花に、そんな力を見いだしたいんです」。(2004年11月2日の信濃毎日新聞

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そごうの「美術画廊」でシャガール版画展を覗く。
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 本日の日経新聞に私の『人生遅咲きの時代』の広告を発見。

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夜は深呼吸学部で橘川さんの講義。以下、キーワードのみ。

カッコイイから80年代のカワイイヘ。山田長政。林雄二郎。文明は利便性、文化は主体性。近代ビジネスはギャンブルとピンハネ東インド会社と代理店の仲介手数料。インターネットは中抜き。『有らざらん壱』(阿部重夫)。31歳の引退。今泉洋。図化考察法。セルモーター。粉川哲夫。いがらしみきお「ね暗トピア」。再会のメディア。シスオペが神。電子メールは葉書。エコーバック。路地裏遊び。深見えいいちろう。まぐまぐ。ランディ。ニフティ、ミクシイ、フェイスブック、来年はVRチャットが大きな流れ。作ったものは毀れる、生まれたものは毀れない。人生、生活、生き方が大事。新企画。書くことから伝えることへ。

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 「名言との対話」11月28日。矢島信男「「弁えた(わきまえた)仕事をしなさい」

矢島 信男(やじま のぶお、1928年7月24日- 2019年11月28日)は、日本特撮監督。

 埼玉県大宮市出身。1949年に松竹入社。『君の名は』、『喜びも悲しみも幾歳月』、『忘れえぬ慕情』などの特撮撮影や演出に関わる。1959年に東映へ移籍。幅広いジャンルの作品で特撮演出を手掛けた。新しい技術を研究したいと1965年に株式会社特撮研究所を設立。数多くの特撮スタッフを育てた。

矢島 信男さん(やじま・のぶお=特撮監督)が11月28日、老衰で死去、91歳。葬儀は近親者で営む。喪主は長男将人さん。

 松竹、東映を経て、65年に特撮研究所を設立。「ジャイアントロボ」「スペクトルマン」「人造人間キカイダー」「秘密戦隊ゴレンジャー」といったテレビ番組のほか、深作欣二監督の映画宇宙からのメッセージ」「里見八犬伝」などを手がけた。

 長年にわたる特撮技術への貢献から、06年に文化庁映画映画功労表彰、11年に日本アカデミー賞協会特別賞を受賞した。

ジャイアントロボ」「スペクトルマン」「人造人間キカイダー」「秘密戦隊ゴレンジャー」などのテレビ番組を担当。また撮影方法が共通するなど感覚が似ていた深作欣二監督の映画「宇宙からのメッセージ」「里見八犬伝」なども担当している。2006年に文化庁映画賞・映画功労表彰、2011年に日本アカデミー賞協会特別賞を受賞した。

松竹、東映を経て、65年に特撮研究所を設立。「ジャイアントロボ」「スペクトルマン」「人造人間キカイダー」「秘密戦隊ゴレンジャー」といったテレビ番組のほか、深作欣二監督の映画宇宙からのメッセージ」「里見八犬伝」などを手がけた。

 長年にわたる特撮技術への貢献から、06年に文化庁映画映画功労表彰、11年に日本アカデミー賞協会特別賞を受賞した。

今回、『東映特撮物語 矢島信男伝』を読もうとしたが、手に入らなかった。この本は、以下のように紹介されている。

「特撮一筋65年!戦後の日本特撮創世記からかかわり、テレビ特撮ブームを支え、日本一の特撮プロフェッショナル集団・特撮研究所を作り上げた、特撮界のリビング・レジェンド。時代の先端を行くクリエイターたちが最上級のリスペクトを捧げる巨匠が、その技と哲学を語りつくす。これが本当の日本特撮史だ!!」

 「特撮はドラマだ」との哲学のもと、「作品を作るのは、編集でもキャメラでもなくハートである」という撮影ポリシーで、 「ドラマを作るのだから、技術と言う言葉が嫌い。技術などは後からついてくること」と仕事を進めていった。「ロボットを俳優として撮る」という考えだった。

この矢島信男の言葉では「弁えた仕事をしなさい」というのが目についた。特撮は金がかかるが、予算や納期などにその都度制限がある。それに不平を言わずに何とか工夫し、注文に応じようとする姿勢がみえる。「弁えた」とは、「わきまえた」と読む。だから、注文主から頼りにされ、クリエーターたちから尊敬されて、膨大な作品に関与できるチャンスを手にしたのだろう。心構えと技量と人柄が揃った人物だったのだ。91歳、老衰で死去。