丸善(丸の内):新著の大型ポスターと「新刊・話題の本」コーナーに面陳(メンチン)。滑川海彦の「情報文武両道塾」は「論語」。

東京駅の丸の内側の書店「丸善」。大きな扱いに驚きました。

『50歳からの人生戦略は「図」で考える』の大きなポスター(B1判)と、「新刊・話題の本」のコーナーの棚の一列全部を使った「面陳」となっていました。

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 丸善からプレジデント社にポスターの作成依頼があり急き制作したものだそうです。大型書店でのこういう扱いは初体験です。

「新刊・話題の本」コーナーの一列の面陳(メンチン)は、ありがたいことです。

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滑川海彦の「情報文武両道塾」をZOOMで受講。本日のテーマは「論語」でした。

・2500年以上前の孔子(BC552年生。74歳で死)の言動を記した「論語」は人間の生き方と社会儀礼を扱った書物。

・「論語」は中国では科挙の科目になったことで、研究の進歩が止まった。日本では「人の道」として生き方になったため、本家の中国以上の水準になった。

・伝統的な解釈と貝塚茂樹の「論語」の解釈と二つある。「春秋左氏伝。上中下」(岩波文庫)は同時代の一次資料として面白い。

・「先生はバカだ」といわれて反論するなど、人間的な孔子の姿がみえる。

孔子の「仁」とはどういうものか。失くした財布が返ってくる社会、これが仁の社会で、日本がそうだ。

・以下を解説。『子曰、学而不思則罔』。『學而時習之。不亦説乎。有朋自遠方來。不亦樂乎。人不知而不慍。不亦君子乎』。教育。戦車。怪力乱神。父と子。名分。手順。仁。

・「儒教は宗教か?」という問題はいずれ解説したい。

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受講しながら考えたこと。

孔子「恕」、ブッダ「慈悲」、キリスト「愛」の共通性。

・セルフマネジメントから始まるマネジメントの発明者・ドラッカーと「修身斉家治国平天下」をいう孔子の共通性。

貝塚茂樹論語』を少しづつ読み進めよう。

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「名言との対話」7月13日。山下喬子「この おはなしは くるしさに まけずに べんきょうを して、りっぱな かがくしゃに なり、ノーベル賞’(のおべるしょう)を二度(ど) うけた 女(おんな)の人(ひと)の ものがたりです」

山下喬子(1922年7月13日ー2004年2月6日)は、児童文学作家。
静岡県沼津市生まれ。 東京府立第四高女在学中に堀辰雄に師事し、戦後は「文学者」で作品を発表。のちに児童文学も書き、1966年「プファ少年」を刊行し、講談社児童文学新人賞を受賞した。

以下、山下喬子の作品をランダムにあげてみる。

トルストイ」 (新装世界の伝記)。「ヘレン・ケラー」。「ケティ物語」 (1983年) (少年少女世界名作全集)。「つるのおんがえし―どうぶつのでてくる話10話 (1977年) (日本名作ものがたり)。「陽は夜のぼる」「悲しみは海の色」 (少女小説シリーズ)。「ポールのあした」「悲しみは空の色」「陽は夜のぼる」「家なき子」「三年二組のいじめっ子」 (1981。太平けっさく童話 どうわのもりへ)、、、。児童文学を生涯のテーマにしたのであろう。

学研アニメ伝記シリーズ⑥『キュリー夫人』(1985年)を読んだ。文は山下喬子。「困難にめげずに、真理を求め続ける心を、えがいています」。

このシリーズは、小学生のうちに必ず通る伝記の人物12人を取り上げている。

日本人では、野口英世豊臣秀吉の2人。以下、外国人の10人。

ナイチンゲール。ファーブル。エジソンヘレン・ケラーライト兄弟ベーブ・ルースリンカーンコロンブス。ノーベル。

「世界一のホームラン王」ベースルースは、メジャーで今年大ブレークした二刀流の大谷翔平を語る際に引き合いに出される偉人だ。大谷の活躍はそれほど凄いということだ。

この本では想定読者と同じ子どものころの解説に重点を置いており、ノーベル物学賞とノーベル化学賞と2度の受賞に輝いたキュリー夫人の子どもの頃の様子がアニメとやさしい文でよくわかる。そして文はわかちがきの文章であるという特徴がある。ひらがなでの読み方も添えてある。親しみやすく、読みやすいように工夫されていて感心した。実にわかりやすく書かれた偉人伝だ。たとえば、以下のように書かれている。

「この おはなしは くるしさに まけずに べんきょうを して、りっぱな かがくしゃに なり、ノーベル賞’(のおべるしょう)を二度(ど) うけた 女(おんな)の人(ひと)の ものがたりです」

偉人伝のルーツは中世ヨーロッパのキリスト教の「聖人」、中国の司馬遷史記』などだろう。日本では戦前に「修身」という科目で二宮金次郎などを取り上げていたが、戦後は児童向けの「偉人伝」は影を潜めてきたように思う。その影響は日本人の精神生活に悪い影響を与えているのではないだろうか。

高い志、克己心、忍耐心、勇気、親孝行、人の為に尽くすことなど普遍的な価値を、具体的な人物の姿で教えることはきわめて重要だ。それは児童だけでなく、生き方のモデルがなかなかみえなくなっている大人にもいえる。私の「名言との対話」も、自分を励ますために書いているのだが、「大人のための偉人伝」という側面もある。これからも「日本人のココロの革命」を念頭に書き続けよう。

 

 

 

 

 

 

 

『50歳からの人生戦略は「図」で考える』出版記念セミナーの打ち合わせ。池袋天狼院書店は「面陳(メンチン)」、新宿紀伊国屋は「平置き」。

池袋駅直結のエソラビル2階の天狼院書店。面陳(メンチン)。

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 8月16日の出版記念セミナーの打ち合わせ。

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店長の永井さん。プレジデント社の販売部の森田さん、編集者の阿部さん。 

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終わって、阿部さんと4階の梟(ふくろう)書房・茶房でコーヒーを飲みながら歓談。

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帰りに新宿の紀伊国屋書店をのぞく。2列の「平積み」だった。

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デメケンミーティング:11名。

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「名言との対話」7月12日。高木聖鶴「平安の古筆の域に達するにはあと100年必要だな。200歳まで一生懸命練習しないと、平安時代の古筆には迫れない」

高木 聖鶴(たかぎ せいかく、1923年(大正12年)7月12日 - 2017年(平成29年)2月24日)は、日本の書家。

岡山県総社市生まれ。24歳、岡山を拠点に朝陽書道会を創設した内田鶴雲に師事する。鶴雲の師の安東聖空譲りの「元永本古今集」の書風を身につけた後、「一条摂政集」「高野切」「針切」「香紙切」など古筆の森に分け入り、王朝の雅を手中に収めた。書名の鶴聖は師とその師の名前からとったものだ。27歳、日本美術展覧会日展)に初入選する。その後は書の世界で大活躍をする。1975年からは日本書芸院理事、1984年からは読売書法会理事に就くなど、日本の書の発展に大いに貢献した。

書家として日本や中国の古筆、名筆を研究し、美しく気品ある仮名を追求、独自の書風を打ち立てる。また戦後の仮名書家たちが追い求めた大字仮名にも新境地を開いた。

2006年に文化功労者に選ばれた際には「かな書は文字としての意味を伝えるだけでなく絵画のような造形美を探求するもの。墨と筆の日本の文化です。書は私のすべて。後世にいい作品をのこすため全力投球する」と述べている。

2013年の高倉健本庶佑らと同時の文化勲章受章時の記者会見では、実際に書を書く姿を見せている。

「ほのぼのと春こそ空に来にけらし天の香具山霞たなびく」(新古今和歌集)や、斎藤茂吉の「あかあかと一本の道とほりけりたまきはる我が命なりけり」を墨で書いている。特に茂吉のこの歌が好きだと語っている。自分の心境に近いのだろう。

以下、日経ビジネスのインタビュー記事から。

・私の人生は、独学による、「雑学の集積」とも言えます。
・その時に解けんかった疑問も、二年、三年と経つと、ふとした瞬間に解けることがあります。難問も自力で突破出来る。“学び”というのは、そういうことではないかと思います。

・他の芸術も、例えば文学、絵、彫刻、工芸にしても、全てが“同根”です。だからそういうことも吸収すれば、肥やしになります。専門以外のことでも理解を深めれば、「幅」が広がります。

・あらゆる能書から、古筆の形、筆跡、書いた人の息遣いまでを学ぶようにしています。
・自然からもヒントをもらいます。
・日本の文字(仮名)の根元は漢字ですから、漢字のことを知らんと、中国の古典を勉強せんと、良い仮名にはなりません。

高木聖鶴は歴史上に輝く古筆と、現代仮名書きを踏破し、その上で独自の書風を確立した人である。「独学と雑学」と本人は謙遜しているが、大自然や他分野、中国古典などあらゆるものに学んだ「博学」の人となったのだ。その学ぶ姿勢が、「あと100年」、「200歳まで」という言葉になった。享年93。 

 

 

私の「万葉歌碑の旅」

 

6月に亡くなった母のライフワークであった「万葉歌碑の旅」。私は運転手として母と一緒に歌碑を探して、歌の意味を教えてもらいました。以下、「万葉歌碑の旅」から。

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2021‐04‐18 八王子の万葉公園で万葉歌碑。
2017‐6‐6 山梨県の万力公園。万葉の動植物の公園。犬養孝の解説が本人の声で聴くことができる。
 栃木県の宇都宮護国神社。栃木県宇都宮の護国神社を訪ねたが、目当ての万葉歌碑は見つからなかった。

 い香保せよ なかなかしけに おもいどろ くまこそしっと 忘れせなふも
伊香保にいる背の君よ、私の妹に思いをかけているようですが、私があなたと一緒に寝たことは決して忘れませんからね。くやしい)(観山荘西側)

 い香保風 吹く日吹かぬ日 ありといえど 吾が恋のみしてときなかりけり
伊香保の山から吹いてくる風も、吹く日と吹かない日があるけれど、私があなたを思う心だけはどんなときも変わらず、いつもあなたを思い続けています。)(伊香保の神社境内)

 い香保ろの そいのまき原 峯もころには奥をなかねそ まさかしよかば
伊香保の山沿いにあるまきの林は、ずっと嶺の方まで続いているのだから、私たちのことだって先のことをあれこれ考えることはないと、今がよいのだからね。)(森林公園管理棟前)

 い香保ろの 八坂のいでに 立つ 虹の 顕ろまでも さ寝をさ寝 てば
伊香保の山裾にある大きな水門にかかる虹が、はっきり見えるようになるまで、一緒に寝ていられたらどんなによいものか。ぜひそうなるようにしたいものだ。)(水澤寺境内)
この歌の訳はこういう風に現地では書かれていた。こちらの方がいい。
(はっきりと二人の仲が知れてしまってもかまわない。それまでも共寝したならば、どんなによかろう。さあ寝よう、寝ましょう)

麻生区金程(かなほど)四丁目の金程万葉苑を訪ねる。坂道を登った住宅街の小山が万葉苑だった。万葉集には萩を歌ったものが143首、梅が118首ある。ここには80種類の万葉草木を植えてあり、そのいくつかには縁のある歌を掲げてある。

防人の歌碑が二首石碑に刻まれている。

 家ろには葦火炊けども住み好けを筑紫に至りて恋しけもはも 
 橘樹郡の上丁物部真根(たちばなのこほりのかみつよほろのもののべのまね)
 家では葦火をたいているけれど住みよいのだが、防人の任にある筑紫では恋しくなるだろうなあ

草枕旅の丸寝の紐絶えば吾が手と付けろこれの針持し
       妻の椋橋部弟女(くらはしべおとめ)
つらい旅の丸寝の紐が絶えるなら私の手と思ってこの針を使ってください

田子の浦ゆうち出でて見ればま白にぞ富士の高嶺に雪は降りける

 (山部赤人・富士を望む歌)

その右に長歌の碑がある。長歌は、575が延々と続き、最後に77で終わるという形式の歌、それを受けて57577の半歌が詠まれる。

 天地の 分れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振りさけ見れば 渡る日の 影も隠れらい 照る月の 光も見えず 白雲も 行きははかり 時じくぞ 雪は降りける 語りつぎ 言い継ぎ行かん 富士の高嶺は

高麗錦(こまにしき) 紐解き放(さ)けて 寝るが上(へ)に 何(あ)ど為(せ)ろうかとも あやに愛(かな)しき  万葉14巻 3465
 (高級な錦織である高麗錦の紐を解いて共寝もしたのに、まだ恋しさが増す。この上、一体何をすればよいのか。ふしぎなほどに愛らしいことよ)万葉学者の中西進文学博士の揮毫

多摩市南野二丁目 一本杉公園 芝生広場

 赤駒を山野に放し捕りかにて多摩の横山徒歩ゆか遣らむ

  豊島郡の上丁椋埼部荒虫が妻の宇遅部黒女
 (としまぐん)(かみつよぼろ)(くらはしべ)(あらむしがめ)(うじべのくろべ)

 赤駒(馬)を山野に放牧して捕えられずに、多摩の横山を歩いて行かせることか、馬がいれば乗せてやりたい、という妻の嘆き。

府中市宮西二丁目 大国魂神社 参道鳥居前の欅並木

 武蔵野の草は諸向きかもかくも君がまにまに吾は寄りにしを
武蔵の国(東京・埼玉・神奈川にわたる大国)の草が風に靡くよう、私は貴方にひたすら心を寄せたのに、という意味の歌。自然と共に生きた女心を歌ったもの。万葉仮名で書かれた歌碑。

八王子市鑓水御殿峠 多摩養育園

 妹をこそ相見に来しか眉引きの横山べろの鹿なす思へる

  逢いに来ました   横山あたり   逢わせもくれずに   母親は
  猪みたいに   追い払う    (現代語訳・竹下数馬)

 多摩側に曝す手作りさらさらに何そこの児のここだ愛しき(万葉集巻十四)

訳:多摩川にさらさらとさらす手づくりの布のように、さらさらにどうしてこの娘がこんなに可愛いのだろう。

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「名言との対話」7月11日。エズラ・ボーゲル「真の愛国者とは、国旗を身にまとって自画自賛をしている人をいうのではなく、真正面から問題を見つめて、その問題への取り組みを始める人のことだと信じるからです」

エズラ・ヴォーゲル(Ezra Feivel Vogel、1930年7月11日 - 2020年12月20日)は、アメリカ合衆国社会学者。

中国と日本を筆頭に東アジア関係の研究に従事した。

1958年にハーバード大で博士号を取得した後、日本に2年間滞在。その後も日本滞在を重ねた。1973年にハーバード大学東アジア研究センター所長となり、1980年には同大に新設された日米関係プログラムの初代所長に就任。1993年には民主党クリントン政権で東アジア担当国家情報官に就いた。

 1979年に『ジャパン・アズ・ナンバーワン』を出版して日本でベストセラーになった。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」では、戦後日本の高度経済成長の要因を日本人の学習意欲の高さや日本的経営などにあると読み解き、米国の対日観に大きな影響を与えた。私もこの衝撃的な本をむさぼり読んだ。

 

2000年にハーバード大学を退職して以降、中華人民共和国の改革開放の立役者・鄧小平の本格的な研究に10年以上取り組む。2011年に出版された『Deng Xiaoping and the Transformation of China』は中国語にも翻訳され(中国語タイトル:『鄧小平時代』)、中国大陸、香港、台湾など中華圏で100万部を超えるベストセラーとなった。日本では、『現代中国の父 鄧小平』(日本経済出版社。上下巻)として出版されている。「名言との対話」で鄧小平について書いたとき、私はこちらも手にしている。

JALの広報課長となった私が創刊編集長をしていた広報誌月刊Currentsのエッセイを部下を通じて野田先生に頼み、その御礼として赤坂プリンスホテルの旧館で食事をしたことがある。「論文よりもエッセイが書きやすい、今後はエッセイストになろうか」と野田先生はおっしゃった。その時、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」で有名なエズラ・ボーゲルさんに紹介しようと直接電話をかけてくれて驚いたこともある。

1990年に刊行された舛添要一監訳・エズラ・ボーゲル他『アメリカを脅かす日本 危険な依存』(騎虎書房)を読んだ。

舛添要一の「まえがき」では、世界GDPの22%がアメリカで、日本は15%となっており、一人当たりGDPでは日本はアメリカを追い抜いたと書かれている。日本の絶頂期の時代だった。「冷戦は終わった。、、、そして日本人が勝った」という日米逆転の雰囲気の中で、ボーゲル教授はアメリカに警告を発している。高付加価値分野の産業部門で国家としての取り組みが必要であること、そして世界で戦える強力な企業の育成が必要だと処方箋を書いている。それから30年経った現在、日米は再逆転となった。アメリカは目を覚ましたのだ。そして眠った日本は中国にも追い越されている。

この本の中でボーゲルは「真の愛国者とは、国旗を身にまとって自画自賛をしている人をいうのではなく、真正面から問題を見つめて、その問題への取り組みを始める人のことだと信じるからです」と結んでいる。

エズラ・ボーゲルは、中国と日本を含む東アジア研究の大御所だが、日本研究、中国研究により得た成果で自国アメリカを啓蒙し、世界に平和をもたらそうという姿勢だ。単に自画自賛をして自国を応援する人たちとは違う。そのグローバルな視界は、大きな竜のようにうねり続ける世界全体をあたたかい眼でみつめていたと思う。そういう人が真の愛国者といえるのだろう。真の愛国者同士は語り合える。

 

 

 

 

 

 

 

万葉歌碑と渋沢栄一。渋沢栄一の事績の広さに感銘を受ける。

梅雨の晴れ間が惜しくて、多摩川沿いの狛江市の万葉歌碑を訪ねました。2008年に当時81歳だった母親と一緒に訪ねたから、13年前になります。

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音を漢字にあてはめた万葉仮名で書き表わされている。

多摩川に晒す手づくりさらさらに何ぞこの子のここだ愛しき」

 

 「多摩川にさらさらとさらす手づくりの布のように、さらさらにどうしてこの娘がこんなに可愛いのだろう」

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この碑は、刻まれた文字が江戸幕府の老中として活躍した松平定信の筆になる。また裏面の陰記は渋沢栄一の撰文と書である。文化文政時代は、行楽が盛んで、多くの文人墨客が多摩川を訪れていた。多摩川の美しさに魅せられていた平井有三(元土浦藩士)が、名勝づくりを発起し松平定信に依頼し、文化2年(1805年)この歌を石に刻みつけ、多摩川堤防の町側に土手を築いて建てた。
碑はゆうゆうと流れる多摩川と調和して素晴らしい光景を造り出した。大勢の人がきたが、京都の松野松秀が感銘を受け佐藤信古から拓本を入手する。当時の多摩川は水量が豊富で暴れ川で、文政12年(1829年)の大洪水で堤防が決壊し、玉川碑も流出してしまう。佐藤信古は拓本を松野から譲り受ける。
大正時代に元桑名藩士で松平定信を尊敬していた羽場順承は、玉川碑の拓本を譲り受け、再建への希望を燃やし石碑を求めて土地を掘り返す。狛江村の村長も協力したが見つからなかった。

そこで名勝保存に志のある渋沢栄一に再建の協力を依頼することとして大正11年12月に玉川史蹟猶興会を結成する。顧問となった子爵渋沢栄一は、総費用を5000円と見積もり、本人が2500円、財界人から2150円(大倉喜八郎服部金太郎和田豊治、安田善治郎、成瀬正恭、、、)、そして総額は6014円になった。そして名石・小松石に羽場順承の持つ拓本の文字を刻み大正12年8月に大方完成した。秋には除幕式を行う予定だったが、関東大震災で歌碑は倒れ、除幕式は延期された。大正13年1924年)4月13日の松平定信(楽翁公)の命日に除幕式が行われた。

渋沢栄一が撰文した裏面の撰文の玉川碑陰記には、この碑のできた由来を述べた後、「そもそも微なことでも、(大事なことは)世に紹介し、幽なことでも(大事なことは)闡明にしていくことが、孔子が著したとも言われる「春秋」(という歴史書)の志であった。」という言葉がある。

「余はいかなる事業を起こすにあたっても、利益を本位に考えることはせぬ。この事業は起こさねばならず、かの事業は盛んにせねばならずと思えば、それを起こし、関与し、あるいはその株式を所有することにする」は、営利事業について渋沢が語った方針であるが、社会事業にも渋沢は熱心だった。意義のあることを頼まれたら、半分は渋沢が出し、後の半分は財界に声をかけて集めて完成させるという渋沢方式をみる思いがします。ここで渋沢の社会貢献事業について、私が実際に見聞きしたところを以下に記してみたい。

  • 2006年。静岡で泊まったホテルは「浮月楼」という庭園の隣。この庭園は江戸幕府の最後の将軍・徳川慶喜が悠々自適、20年にわたって過ごした地である。ホテルの近くに渋沢栄一がつくった商会所跡の石碑があった。渋沢は慶喜の従者として静岡でも活躍した。この商会所はその後渋沢が全国につくったの商工会議所の前身だろう。
  • 吉田東伍『大日本地名辞書』は日本の地名に関する最初で、最大の辞書である。政界、学界、渋沢栄一ほか財界人等27氏から序文、推薦文等が寄せられている。
  • 友人の遅い結婚式の会場の一ツ橋の如水会館の一階には、渋沢栄一の半身の銅像が建っていた。「如水会」とは東京商科大学(現一橋大学)卒業生の同窓会で、1889(明治22)年設立の高等商業学校校友会が前身。校友会は後に同窓会へと名称を変更、1914(大正3)年には渋沢栄一命名により如水会となった。渋沢栄一は商業教育を重視し、商工業者を蔑視する官尊民卑の風潮を打破するためにも「教育の力に依って商業を尊敬せしめるようにせねばならぬ」(『渋沢栄一伝記資料』第44巻p.305)と述べている。1900(明治33)年、渋沢は東京商業高等学校を大学に昇格させるように主張し、尽力。その後20年を経て1920(大正9)年、同校は東京商科大学へと発展した。その後、一橋大学になる。
  • 日本は美術館天国だ。事業家・経営者は美術コレクターが多く、すぐれた美術館を遺してきた。その発端は1909年の渋沢栄一が団長の渡米団でアメリカの事業家たちの社会貢献をみたことだ。畠山清和、原邦造、岩崎弥之介などみんな美術館を残している。
  • 高峰譲吉理化学研究所理研)の設立を提唱、渋沢栄一は副総裁として財政を後押しした。理研は63社、121工場もの企業群を擁するコンツェルンを形成したが、人材輩出の面で素晴らしい業績をあげている。
  • 温故学会は塙保己一の遺志を継承して大成することを目的として1909年公益法人化した。渋沢栄一は発起人の一人で、この立派な温故学会会館の設立にも同郷の渋沢栄一が援助をしている。ヘレンケラーが訪問している。
  • 2017年。「がん研有明」の知人のお見舞い。1908年創立で100年を越える「がん研究会」は、渋沢栄一が尽力してできた団体だった。渋沢は500社の創立に関わったのだが、慈善事業・社会福祉事業には600だった。その一つが「がん研」だったことが分かった。
  • 渋沢栄一井の頭公園)。渋沢栄一は、実業界引退後に教育や社会公共事業にも広く尽力しましたが、その一つ、現在の井の頭自然文化園の敷地にあった、非行少年更生施設の井之頭学校の校長を務めていた。
  • 2019年、塩原太助記念館。1925年(大正14年群馬県水上町に塩原太助翁記念公園が完成。渋沢栄一が顕彰碑に揮ごうしている。
  • 2021年。「 旧東京音楽学校奏楽堂」が開いていたのでのぞくと、渋沢栄一の碑があった。「永遠」という字が揮毫されていました。「栄一書」とだけ書いてある。この奏楽堂の建設や保存にも渋沢栄一力を貸したのでしょう。ここにも渋沢栄一がいたのか。

思いがけないところで、渋沢栄一が尽力しているとして、名前が登場することを経験している。この玉川碑に関与した渋沢栄一1840年生まれ、大倉喜八郎は1937年生まれ、安田善次郎は1938年生まれと同世代だった。

渋沢を中心とした財界人らは、常に集まって以上のような相談をしていたのでしょう。三井物産初代社報の益田鈍翁(孝)は、渋沢栄一について「何か困難なことが起こると、上州気質を出してあくまでやる。それに徳望が伴うものだから、どんな困難なことでもやり遂げる。何か新しい仕事をやるときはまず渋沢さんに相談した」と書いている。渋沢の志と立ち位置がよくわかる言葉です。

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「名言との対話」7月10日。伊藤淳二「「未完の如くして完結して居る。果たされない様で果たされて居る」

 伊藤 淳二(いとう じゅんじ、1922年7月10日 - )は、日本実業家

伊藤淳二(いとう じゅんじ)氏は、1947(昭和23)年、慶應大学卒業後に鐘淵紡績(カネボウ)に入社。オーナー社長・武藤絲治(むとう いとじ / 1903〜1970)の後継者指名を受け、1968(昭和43)年、45歳の若さで社長となる。カネボウは経営多角化を推し進め、1984(昭和59)年、会長に就任。城山三郎『役員室午後三時』- 主人公のモデルとなった。

1985(昭和60)年の御巣鷹山日航機事故後、政府(中曽根康弘首相)からの強い要請で日本航空副会長(翌年に会長)に招聘される。わずか1年で辞任。山崎豊子沈まぬ太陽』- 登場人物の国見会長のモデルとなった。

この人が御巣鷹山事故で揺れるJAL再建の切り札として乗り込んできたとき、私は35歳の広報部員だった。伊藤会長のインタビューなどにも同席したことがある。

今回、 1988年刊の『天命』の(復刻版)を読んだ。信条は「天命を信じて人事を尽くす」だ。結果は期待に反することもあるが、最善を尽くしただけを反省する。1985年に政府の強い要請によって日航の経営陣に加わったことを、二度目の召集令状を受けたと記している。

伊藤淳二は優れた人との出会いを求めた人であり、そして読書をよくする人である。

若き日には和辻哲郎からは「葉隠れ(岩波文庫)をすすめます」とアドバイスを受けている。阿川弘之の「国を守るとは一体どういうことなのだろう。男が守るべき具体的対象は、まず愛する女と子供、親兄弟なのではないか、、」に共感している。

慶應塾長の小泉信三からは「この戦いは、戦争に負けたのではない。残念ながら、アメリカの民主主義に負けたのだ」、そして「オネスト・ダラーのために働き給え」とアドバイスを受けている。

中に河合栄次郎の言葉がある。「母を失ったということは、僕にとって実に大きな損失である。本当に喜びを共にして呉れる人がいなくなって、之からの世渡りに楽しみはなくなってしまった」。この言葉は最近母を亡くした私の心に刺さる。

まだ手にしていないが、『人生』という著者は、「 孔子のことば、読書について、自由主義社会主義、正道と権道、人間の価値と善について、鐘紡会長である著者が、若き日々に考え抜き、その拠って立つべき価値のおりかを書き記した、殊玉の人生論集」と記されている。

伊藤淳二は、「美しい人生とは美しい晩年を送り得る人、人生の一瞬一瞬をかみしめ「今」に燃え、毎日毎日を精いっぱい送る人であろう」という。共感する。

そして、「未完の如くして完結して居る。果たされない様で果たされて居る。大切なことは、その時、自分の可能性の全てを尽くしたか否かであるように思う」という言葉で『天命』の最後に語っている。未完であるがそれなりの完結している。目的を果たし得なかったようで果たしている。そういう美しい生涯があるかもしれない。

 

天命

天命

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「インタビュー週間」が終了ーー渡辺幸弘さん(ギリー倶楽部)、松山慎之介さん(人吉仕事サポートセンター長)。

5人の人へのインタビューが本日で終了しました。

10時:渡辺幸弘さん。キリー倶楽部主宰。ZOOM取材。

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サントリー26年。ギリー倶楽部20年、ストレスフリー。自由人。人と人を結びつける案内人。2100回のイベント。リモート110回。シニアが楽しめるコンテンツ開発。音楽。絵画。飲食。毎日が未知のゾーン。今。新しいこと。テクノロジー。やさしさとしたたかさ。リモートという武器。リアル&リモート。回想法。グレーター中国。誠品生活。2割。好奇心とフットワーク。学ぶ姿勢。青年期。壮年期。実年期。71。

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松山慎之介さん。人吉仕事サポートセンター長。ZOOM取材。

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地域。手応え。台湾。球磨。投票率SNS。1800回。3年。人の縁。人間。運命・偶然・選択。水害。川上。自分。タガ。失敗。観光。コロナ。青年期。壮年期。実年期。67。

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昼食:橘川さん

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夕食後:参加型社会学会のイベントに少し顔をだすが所用ですぐに退場。

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「名言との対話」7月9日。山中貞則「後継は山中家から出してはいかん」

山中 貞則(やまなか さだのり、1921年(大正10年)7月9日 - 2004年(平成16年)2月20日)は、日本の政治家。

衆議院議員を17期つとめ、沖縄開発庁長官、防衛庁長官自由民主党政務調査会長通商産業大臣などを歴任した。税制のスペシャリストとして長年にわたり自民党税調に君臨し、「税調のドン」と呼ばれた。

南日本新聞記者、鹿児島県議会議員を経て、1953年の第26回衆議院議員総選挙に旧鹿児島3区から自由党公認で出馬して初当選。1955年自由民主党結成で河野派に属す。1958年岸内閣の大蔵政務次官に就任し、難題であった物品税の大改正を成し遂げた。1971年佐藤内閣の総務庁長官として沖縄返還に尽力し、沖縄開発庁長官に就任する。

「光の当たらない所に光を当てるのが政治家の使命」と確固たる信念を持ち、国際政治では沖縄復帰・復興への尽力、国内政治では消費税導入による税制改革、この二つを政治家としてのライフワークとしている。

江戸時代に薩摩が琉球を支配したことへのしょく罪意識、米軍が沖縄上陸作戦を選ばなかったら故郷の鹿児島が舞台となっていただろうことへのある種の感謝、それが山中が沖縄に入れ込んだ理由だった。衆院議員初当選から半世紀近くにわたり沖縄問題に深く関わり、沖縄のために683本の特例法を通すなど沖縄振興に尽力した。沖縄県名誉県民第一号となっている。

1979年自民党税調会長となり、「税制のドン」「税の神様」「ミスター税調」と呼ばれていく。1990年税調幹部としのて消費税導入に尽力したとき、「今日から消費税の議論をする。全員落選の覚悟で議論しろ」と述べ、そのとおりに自身が落選した。

しかし1993年に72歳で返り咲き重鎮として処遇された。政府税調と方針が対立して「政府税調を軽視しているのではないか」と聞かれた際には「軽視ではない。無視しておる」と発言して物議をかもしたことは記憶にある。税制調査会では会長退任後も最高顧問として事実上の最高実力者であった。税制にかかわる「インナー」というグループのトップであった。メディアには「税のことは50年しかやっていないのでよくわかりません」と煙に巻くなどエピソードが多い。

山中貞則は義理堅く深い情をもった豪快な薩摩隼人だった。先輩の中曽根康弘総理を「中曽根君」と君付けで呼んだり、「こら待て吉田。なんだその態度は」と吉田茂総理にあたったりしている。

歌人としての雅号は隼人で、戦時中に「いささかの愛惜を断ち焚き捨つる万葉代匠記の炎よ赤し」との歌もある。歌集は2冊ある。

著書『顧みて悔いなし─私の履歴書』(日経事業出版、2002年)のタイトルも山中らしい。2014年鹿児島曽於市山中貞則顕彰館が開館している。私の「人物記念館の旅」では鹿児島はまだ手薄になっている。機会をつくって訪問したい。

日本では世襲議員が多い。投票率が低ければ既得権益を持つ世襲者が当選しやすくなるという構図だから、投票率を高めようとするモチベーションはなかなか上がらない。前回の2017年の総選挙では、世襲と呼ばれる候補者は128人で自民党には94人いた。議員という職業はやはりうまみがあるのだろう。自民党では国会議員の3割は世襲である。菅内閣世襲大臣は6割に及んでいるという。

山中貞則は遺言で「後継は山中家から出してはいかん」と世襲を否定し、身内からの後継出馬を当然視していた自民党鹿児島県連が大騒ぎになっている。最近議員の退任がいくつか報道されているが、秋までに実施される衆議院選挙では後継候補についても関心を持つことにしよう。

山仲貞則という政治家の生涯を追うと、最後まで国を憂う国士だったことがわかる。

 

 

 

 

 

新著のインタビュー取材の第3弾ーー須藤一郎さんの「青年期」「壮年期」「実年期」「熟年期」。

午後は新著のインタビュー取材の第3弾で小田原の富水にでかけました。

須藤一郎さんの来し方、現在、未来について3時間ほどじっくりと聞きました。

大手生命保険会社に勤めながら、46歳から妻と共に現代美術の蒐集を始めて、54歳で自宅を美術館として開放し、62歳で銀座で美術館を開館し、その後に小田原で美術館を展開した人。現在はギャラリー等で展示やアーチスト支援の活動を行っている。現在85歳。

「青年期」は生命保険会社のビジネスマン。「壮年期」は美術に目覚め町田の自宅を美術館として開放。「実年期」は銀座で美術館を展開。「熟年期」に入り、小田原で活動中ということになります。

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一つの人生。自分自身が作品。宮里藍。絵は多くの人の見てもらいたいはず。自宅開放。世界一小さい美術館。50坪。100万。座していてはだめ。音楽・演劇・落語。相乗効果。人物。交流。受ければ何とかなる。人の評価より自分の評価。何点か。いいことだけを思い出す習慣。一寸先は光。市民功労賞。コロナでアート。老いるショック。世界は広い。現代アート。句会。人生に無駄はない。夢。出前美術館。グローバル。現代の生活空間にあう絵。絵をかけて一生付きあえるか。タテからヨコへ。展覧会。エッセイ。、、、、、

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18時半:町田で弟と食事。

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「名言との対話」7月8日。田中恭一「自分の仕事を好きになること、それこそ人生の扉を開く鍵ではないでしょうか。好きという気持ちの力は計り知れません」。

田中 恭一(たなか きょういち、1931年7月8日 - )は、日本の実業家。

コンタクトレンズの代名詞となっている株式会社メニコンの創業者。

愛知県出身。父は竹彫作家の田中華山。13歳、戦時中の軍需工場で1年半にわたり手とり足とり教えてもらった腕のいい職人との出会いがあった。

手先の器用さを買われて名古屋市の老舗眼鏡店の玉水屋に勤務する。仕方なく始めた丁稚奉公だった。常連客のアメリカ軍将校夫人からコンタクトレンズを持っているという話を聞いたが、いくら頼んでも見せてもらえなかった。「アメリカ人に作れて日本人につくれないはずはない、何が何でも自分で作ってやる!」と決心する。

『無から有を創造する楽しさ』(中経マイウエイ新書)を楽しく読んだ。

自転車にのって風圧を感じ、水中ではどうなるかを自分で確かめる。人に聞く、材料をさがしまわる。題点を確認しすぐに改善するなど、独学でレンズの開発に取り組んでいく。デザインの設計から加工、装用実験など全て独自に行ない、1951年、現在のハードコンタクトレンズとほぼ同じ黒目のみを被うタイプを、3か月で日本で初めて開発した。

この「知らなかったからこそできた」というこの経験から、「人真似をしない」ことが、その後人生の指針となり、メニコンの方針となる。そして研究開発、製造、販売まで一貫して取り組む企業として業績を着実に伸ばしていく。

「視力の提供を通じ、信頼できるパートナーとしてお客様の人生と関わってゆきたい」「安全、快適、便利」な商品の開発というのがメニコンの姿勢だ。現在の経営状況をみる。資本金54億。従業員1512名。営業所15、販売店53、研究所・工場6、カスタマーセンター3、物流センター5。子会社は国内9、海外14。2021年3月の売上高は860億円、経常利益83億円という優良企業となっている。現在もある玉水屋店頭には『コンタクトレンズ誕生の地』の記念プレートが設置されている。

2021年9月16日(木)にメニコンスーパーコンサート2021 歌劇「あしたの瞳~もうひとつの未来~」を愛知県芸術劇場大ホールでグランドオペラを上演するとのニュースが流れている。田中恭一の半生をモチーフとして、「みる」とは何か?「みえる」とは何か?がテーマのlグランドオペラに700名を招待するというのだ。

「自分の仕事を好きになること、それこそ人生の扉を開く鍵ではないでしょうか。好きという気持ちの力は計り知れません」。90歳をまじかに控えも「好きという心、より良いモノを作りたいという探求心が火をつけた情熱は、今日も煌々と燃えています」と語っている。

たまたま与えられた目の前の仕事を徹底してやれば必ず好きになる。好きになると「案外、壁なんてない」ことがわかる。人生の扉を開くカギは、仕事を好きになることなのだということがよくわかる。

コンタクトレンズの代名詞となった企業を起業した人というより、コンタクトレンズという業界を創造したというべきこの人の映像をみると、仕事に惚れて、楽しくてたまらないという表情をしている。「好きこそものの上手なれ」という先人のことわざの威力を改めて感じる。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
   

七夕の日、「参加型社会学会」が発足.

参加型社会学会が発足しました。150名が集まり、ZOOMで2時間のイベントに参加しました。以下、図メモ2枚。

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 田原真人会長。
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ブレークアウトセッション。斎藤寛子さんと中山弘さんと。
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橘川幸夫事務局長。
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滝和子「気分調査」
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「名言との対話」7月7日。乙骨淑子「すすまないほうが、いいことだってある」

乙骨 淑子(おっこつ よしこ、1929年(昭和4年)7月7日 - 1980年(昭和55年)8月13日)は、日本の児童文学作家。

東京都出身。1954年に柴田道子らと同人誌「こだま」を創刊して以来、創作活動に専念した。代表作をアマゾンでの紹介で記す。

1985年『ぴいちゃあしゃん』。「主人公の隆は高等小学校を終えると少年通信兵として中国の筆架山(ぴいちゃあしゃん)に送られる。そこで知った真の日本軍の姿とは…」。

1986年の『十三歳の夏』。 「熱く燃えながら駆けぬけた風。あなたはオッコツヨシコを知っていますか。ここにYA(ヤング・アダルト)へのメッセージがあります」。清冽な文章で少女の心情を描いた作品だ。十三歳の理恵は、父が家を出て以来、祖母と同居をしていたが、その祖母も他界。親戚のおばさんに引き取られたが、おばさんは冷たい態度で理恵に接する。理恵は父の住む家へ向かうと父と同居しているおばさんに会い「私、ここの家の子になりに来たんです」と告げるところから物語は始まる。多くの友人、すれ違った人との出会いを軸に小説は展開する。本作品は少年ドラマシリーズでテレビドラマ化された。後、フジテレビでも森光子主演で再びドラマ化された。

1995年の『八月の太陽を』。「西インド諸島にあるハイチ島。1790年代、ここはフランスとスペインの植民地。ひとにぎりの白人に支配される島だった。フランス革命の1年後、黒人の不満は爆発し、武力抗争の火ぶたが切っておとされる」。

ガンのため1980年8月13日に51歳で逝去。長編『ピラミッド帽子よ、さようなら』は、未完に終わる。この遺作は版元である理論社社長・編集者であり作家の小宮山量平によってエンディングが補完され出版された。没後、理論社より『乙骨淑子の本』(全8巻)が刊行された。

小宮山量平氏による「告別のことば」で乙骨淑子をしのぼう。「あの『ぴいちゃあしゃん』で、あなたは戦争責任そのものに、容赦なくとりくんだことは明らかです。そして『八月の太陽を』において、あなたは解放と革命の想念を、若い読者たちの精神の糧として見事に結晶させています。そして、今は絶筆となった『ピラミッド帽子よ、さようなら』では、現代的環境に囚われた若者たちの感受性そのものの変革にかんする最良の試行を決行しておられます」。

絶筆となった未完の『ピラミッド帽子よ、さようなら』を、この機会に半分ほど読んでみたが、引き込まれるように滑らかな文体が魅力的だ。アマゾンの紹介では「内側に秘めた問題意識を創作児童文学というかたちで世に問いつづけてきた乙骨淑子という作家が、死を前にしてどうしても描きたかった「もうひとつの世界」。それは絶筆となり魂の作品となった。未完ゆえ読者に物語の行方は大きく委ねられ、どこまでも新しく深まっていき、それぞれの作品として存在感は増すばかりであろう。少年時代に出会いおおいに創作姿勢への影響を受けた、アニメーション監督・新海誠による解説も味わい深い」とある。

第一楽章「不思議なことはあったほうがいい!」は、通知表で数学が「1」という成績になったところから不思議な世界がひらけていく。最後の第4楽章「ビマーナにのって早くかえろうよ!」では登場人物に「すすまないほうが、いいことだってある」と語らせている。若い多感な読者は、この絵本のようなメルヘンの世界に遊ぶことによって影響を受けるだろう。

映画『君の名は』の監督の1973年生まれの新海誠は、10歳になる前に『ピラミッド帽子よ、さようなら』を読んでいる。「人生を変えてしまう衝撃的な出会い」と語り、「僕だけの本」という。この物語で世界の深部まで長い旅を続けていたが、著者の死によってクライマックスは断ち切られてしまい、強烈な喪失感を味わう。そのことによって「自分なりのエンディングを作り出さなければならなかった」。自分が目にするはずだったラストシーンを追いかけるようになった。それは乙骨淑子の「呪い」あるいは「祝福」だ。新海誠は優れたアニメを創作し続けているが、乙骨淑子の見せてくれるはずだった風景は、まだ描けてはいないと、2017年にこの本の「解説」で告白している。

乙骨淑子の「不思議なこと、もう一つの世界、未知への冒険」、そして後は、新海誠にゆだねたことになる。確かに2016年9月にみたアニメ『君の名は』は、乙骨淑子の匂いがある。その主題歌「スパークル」の最後は、「運命だとか未来とかって 言葉がどれだけ手を伸ばそうと届かない 場所で僕ら恋をする 時計の針も二人を 横目に見ながら進む そんな世界を二人で 一生 いや、何章でも 生き抜いていこう」というメッセージだ。その世界は新海誠によって今からさらに堪能できるはずだ。