阿部次郎記念館を訪ねる・安井曽太郎展を見る・楽天巨人戦を楽しむ

・阿部次郎記念館

 今まで何度も出かけたが閉館のため、中に入れなかった「三太郎の日記」の阿部次郎記念館を午後に訪問。東北大学広瀬川の間にある米が袋地区にある記念館は、この4月から土曜日が開館となって月曜日が閉館となった。これは、東北大学独立行政法人化が契機となった。この記念館は東北大学文学部の所管である。1883年生まれの阿部次郎は1959年に77歳で生涯を閉じている。一高・東大を出て、慶應大学や日本女子大の講師をつとめたあと、東北帝国大学法文学部開設に伴って41歳の時に教授として仙台に赴任している。学生時代に読んだことのある「三太郎の日記」は次郎が32歳のときの作品である。漱石門下の俊秀との交流もあり、大正5年12月9日の漱石の逝去時に「夏目先生死す。通夜、雪とまがふ月夜、、。」と書いた博文館発行のポケット日記も見ることができた。秋田県松山町の出身だが、同郷の者との親交が深かったようで、写真嫌いだったが秋田出身の土門拳が撮った写真は気に入っていたそうだ。59歳で法文学部長になるが翌年軽い脳溢血で辞任する。東北帝大は阿部次郎の時代は有名教授が多く華やかな時代だった。記念館にあった阿部次郎の机があり、古い椅子に座って写真を撮ってもらった。次郎は19才から71歳まで断続的ではあったが、日記をつけ続けたという。


・安井曽太郎展(宮城県美術館

 1888年生まれ1955年に死去した安井曽太郎。1907年から1914年の間、18歳から25歳をフランスを中心に絵の勉強をする。当時の名画伯セザンヌの影響を受け、「その辺りの樹木や人や道の総てがセザンヌの絵のように見えるので困った」とあった。帰国が1928年まではヨーロッパの影響からの脱却ができずに不振の時代、、模索の時代が続く。1929年からはようやく「安井様式」が成立する。鮮やかな色彩に白や黒を併用して強気対照を持ち込み、同時に大胆な省略と強調とで形態をデフォルメするのが安井様式である。1936年から1955年までは一水会時代で、1944年には16歳からの同志であった梅原龍三郎とともに東京美術学校の教授になっている。1950年から始めた「文藝春秋」の表表紙の絵を担当して、制限のある画面とデザイン的な配慮が必要なため軽快な感覚を引き出すことができたという。安井曽太郎の人物画も面白い。本多光太郎、小宮豊隆安部能成(葬儀委員長)、大内兵衛、、。


楽天・巨人戦

 フルキャストスタジアムでの2度目の観戦。今回はフィールド席。天気もよくて気持ちの良い観戦となった。清原、仁志、斉藤、ロペス、、、などホームランが多く楽しめた。8回終了時に帰った時は、8対4だったが、終了時には12対6となっていた。2万人弱の観客で埋まったスタジアムを楽しんだ。