尾崎行雄記念館・相田みつを美術館

最近、東京で時間が空きた時に、憲政記念館尾崎行雄記念館を訪ねた。尾崎行雄(1858年ー1954年)は3つほど年上の犬養毅(1855年ー1932年)とともに憲政の神様と称せられている。慶應で学び、福沢諭吉の推薦で新潟新聞の主筆を20歳で務めているから才気があったのだろう。大隈重信から気に入られて39歳に時に文部大臣、55歳の時に法務大臣をつとめている。「満州国建国は国家の利益にならない」など信念を発表する気概があり、この気概が尾崎を尾崎たらしめているとの印象を持った。西尾末広代議士の議会発言による除名に対して「黙しなば 安からましを 道のため 湯和気を援け 危うきを践(ふ)む」と歌を詠んでいる。94歳で書いた「わが遺書」という復刻版の書物を購入して前書きを読んでみると、その気概に心を打たれる思いがする。太平洋戦争を「おどろきべき無謀、公算なき戦争」と評価し、「こんどこそ方向を誤ってはならない」と考え、後世に残そうと考えた言葉集となっている。「みすみす日本の陥る淵が眼前に渦をまいておるにもかかわらず、それが見えなかったのである」とも述べている。この本は、第一部:世界と日本、第二部:日本改造の方途、第三部:命に代えて、という構成だ。


尾崎行雄は号を何度か変えている。学堂を、東京退去を命じら愕然としたため愕堂に改め、50歳ではりっしんべんうを取り、90歳を機に卆翁と名乗る。「人生の本舞台は常に将来にあり」と言った。


東京市長をつとめた尾崎は、52歳の時に、アメリカ大統領タフト夫人との関係でワシントンに桜を贈る。一度目は害虫にやられたため、3000本を贈り、それが現在ワシントンのポトマック河畔を彩る桜に育っている。この桜を見るために1950年、91歳で訪米を果たし、育った桜を見る機会を得た。1957年にはアメリカからお返しのアメリカ・ハナミズキが贈られこの憲政記念館で4月下旬から5月上旬にかけて、美しく咲くという。