野田一夫先生の「語録」を編んでいます。

野田一夫先生の語録の編集をしています。

野田先生が長い間、親しい友人1000人に向けて毎週出していた「はがき通信ラポール」が材料です。75歳から90歳までの日々が手に取るようにわかる内容です。私も毎週受け取っていたのですが、改めて読んでみると、そのエネルギーに圧倒されます。

会った人物、内外の旅行、読んだ書籍、そして日本の行く末をテーマとした論考。人生100年時代の高齢者の生き方のモデルでしょう。読んだ人は励まされることでしょう。

野田 一夫 様からのメッセージ|甲南大学マネジメント創造学部(CUBE西宮)アーカイブサイト

以下、75歳時点の新年の決意と、90歳の卒寿の会の様子を記した回をアップします。

ーーーーーーーーーーー

428 希わくは惜しまれつつ  2003年1月15日

「一年の計は元旦にあり」。幼い頃から聞きなれたこの金言の意味を、今年ほど切実に味わったことはありません。理由の一つは、僕にとって今年が、四捨五入すれば80歳になった最初の正月であること。今一つは、時間をたっぷり感じながらの年末年始を、何十年ぶりに満喫したことです。
 還暦過ぎ頃から、「歳には見えない…」などと言われる度に、「ということは、僕が年寄りだということですよ…」と笑いとばしてきましたし、幸い生まれて以来病気らしい病気一つすることもなく元気に年を重ねてきました。が、平均寿命78歳弱という日本人男性の一人としては、いつ死んでもおかしくない歳に近づいたわけで、残された人生を「悔いなく生きる」ためには、言葉の真の意味で計画的であるべきだと、僕はこの歳になってやっと自覚したのです。
 過去半世紀間の僕の毎年の手帳をめくれば、年始から年末まで、朝から夜まで、週日から週末まで、白い箇所がほとんど見当たりません。他でもなく、仕事にせよ遊びにせよ僕がいかに忙しく生きてきたかの何よりの証拠です。「忙」とは「心を亡ぼす」、つまり無我夢中=無計画に生きる様を意味します。僕は今年からそういう生き方と絶縁します。
 今年も依頼される仕事は絶えないでしょう。会いたい人は増える一方でしょう。気の向かない仕事、会いたくない人を断りながら忙しい毎日を重ねれば、それが「悔いない人生」なのかと問われれば、答えは断然「否!」。「人生の真の宝」である家族や友人たちが心から惜しんでくれるような別れ、それを常に念頭に置きつつ残りの人生を生きるために、「計画」の持つ意味は、いま限りなく大きく感じられます。

ーーーーーーーーーーーーーーーー

971 予想外の卒寿の宴 2017年7月6日

健康に歳を重ねてきた私は、「卒寿の今年6月22日前後はいろいろお祝い会が重なるはず…」と覚悟はしていたが、その数は予想を遙かに上回った。「梅雨の最中でもあり、産業界各社の“株主総会の季節”でもあり」という理由で、先駆けは何と5月22日。これまで関係のあった5経済団体の共催。                   
 しかし一学究の身。数百人のささやかな会を予想していたが、当日来会者は千人近くに及んだのは、今も信じられない。石田純一君の司会で始まった会は、冒頭、小泉純一郎元首相の来賓代表挨拶、ジュディ・オングさんによる花束贈呈、友人代表茂木友三郎キッコーマン名誉会長の友情溢れる祝辞で始まった。   
 宴会前には、(若い頃、僕の赤坂オフィス来訪の常連で、早々と世に名を成した)“ベンチャー三銃士”のうち澤田秀雄HIS会長兼社長と南部靖之パソナグループ代表との対談が行われ、海外出張中の孫正義ソフトバンク社長は、わざわざビデオメッセージを送ってくれたではないか。衷心喜びを感じた次第。僕は何たる幸せ者!   
 我が人生を振り返れば、幼くして、日本の航空技術者を先駆けた父を憧れ、父に続こうとした青年時代までの一途な努力が、旧制高校時代の国家の敗戦で水泡に帰してから70年。心ならずも文科に転じ、社会人となり先ず大学教員としての職を得た時点でも、その職で人生を全うする気は全くなかったものだ。   
 だが「人生万事塞翁が馬」。早々と米国留学を果たした一先輩が土産にくれたP・ドラッカーの書に感激し、僕がその書の翻訳監修をしたことが縁で彼との交友が生まれ、MITに招かれ、2年間の研究生活の過程で“起業家”という絶好の研究テーマにも巡りあい…、僕の学者人生は終生活気に満ち満ちた。
  以来60年、素晴らしい起業経営者と相知り合い、多くを学び、学んだ成果を抽象化して書き語る一業界を中心に、人間関係をいろいろな分野で自然に広げ、かつ深めてきた。この間にどんどん増えた友人たちと、結婚満60年を迎えた妻と4人の子供たちに、心からの感謝を捧げつつ、本稿を終る。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」4月10日。下畑卓「三十五人の小学生

下畑 卓しもはた たく1916年1月30日 - 1944年4月10日)は、日本の児童文学作家。享年28。

兵庫県神戸市出身。母親が演じ教育にたずさわったこともあり、幼稚園に住む。尼崎中学卒業後、大阪朝日新聞に入社。1936年、大阪童話教育研究会に入会。個人雑誌『TAN』を創刊。1938年、『新童話集団』を創刊。

1939年には「新児童文学集団」を結成し、『新児童文学』を創刊。

1940年、『大河原三郎右衛門』(後に『煉瓦の煙突』に改題)で、、日本新人童話賞を受賞。以後、商業誌にも作品を発表する。

1942年、朝日新聞東京本社で『コドモアサヒ』の編集にあたる。1942年に童話枠品集『煉瓦の煙突』、1943年に『みなとの風』を刊行し、生活主義派童話の新人として注目された。1944年、没。

『TAN』では、童話を文学に高めることを意識し、文章表現を重視した。

『新童話集団』では、表現よりも主題を重んじるようになった。

『新児童文学』では、岡本良雄が提唱する「生活童話」に影響を受けた『三十五人の小学生』を発表した。修学旅行の先で先生にはぐれた小学生たちが自分たちの力で故郷に戻るまでを描いた作品である。

代表作の『煉瓦の煙突』は一人の子どもを描写した力量が高く評価された。下畑卓は、28歳という若い死であったが、4冊の作品を残している。

下畑卓は、「童話」という観点から、「児童文学」という文学へと視点を拡大していった。そして文章表現を重視する文学から、児童そのものの心を描こうとし、その中で児童の生活と成長に着目して作品に結実させていった。

児童文学というジャンルをみると、文芸作品としての分類、年齢と発達段階との関係、そして歴史など、広く深いようだ。下畑が戦後も生きて活躍していたら、児童文学界において、大きな存在になっただろうと惜しまれる。