昼は万葉歌碑の旅。夜はMSのBing(chatGPT4)を試すー「久恒啓一は?」

妻の「万葉歌碑の旅」についてゆく。武蔵小杉からバスで等々力緑地公園。

川崎市市民ミュージアム(閉館中)のそばに歌碑を見つけた。

「橘の古婆の放りが思ふなむ心愛(うつく)しいで我は行かな」

橘の古婆(地名)の少女が思ってくれているに違いない心根がいとしい。さあ、私は逢いに行こう。放り、は童女の髪型。由布岳の山頂の形も放りだった。

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「chatGPT」が話題だ。マイクロソフトのBingを使って、自分を題材にして対話してみた。

久恒啓一について教えてください。

  • 久恒啓一さんは、多摩大学名誉教授や宮城大学名誉教授などを務めた方です。³図解コミュニケーションや人物記念館の旅などの著作があります。¹また、NPO法人知的生産の技術研究会理事長や日本未来学会理事などもされています。³(ほぼ正確です)

人柄は?

  • 久恒啓一さんの人柄については、検索結果にはあまり情報がありませんでした。¹²³しかし、note.comで毎朝書き続けている「日本近現代の偉人たちの生涯と名言」²や、偉業をなしとげた人々の「志」を紹介した著書³などから、久恒啓一さんは日本の歴史や文化に深い関心を持ち、その精神を伝えようとする方だということがわかります。(よく理解してくれています)

どんな本を読んでいるのでしょうか?

  • 久恒啓一さんは、100冊を超える著書を持っています。¹⁴その中には、図解の理論と技術を紹介した『図解シリーズ』¹や、偉人の名言を集めた『偉人の命日366名言集』『偉人の誕生日366名言集』¹²などがあります。最近では、人生100年時代を乗り切るための仕事と人生の設計図のつくり方を伝授する『50歳からの人生戦略は「図」で考える』⁵⁶という本を出版しました。(私自身がどんな本を読んできたかを聞いたつもりでしたが、質問の言葉が足りなかったようです)

ビジネスマン時代の仕事は?

  • 久恒啓一さんは、日本航空で24年間ビジネスマンとして働いていました。¹³その後、宮城大学多摩大学で教授として24年間教鞭をとりました。¹³現在は、名誉教授やNPO法人の理事長などを務めています。¹(年数は正確です)

久恒啓一さんの尊敬する人は誰ですか?

  • 久恒啓一さんは、経営学者のピーター・ドラッカーを尊敬しています⁴⁵。ドラッカーの理論を図解でわかりやすく説明した本も出版しています⁴。ドラッカーは、「21世紀に重要視される唯一のスキルは、自分自身をマネジメントすることだ」と言っています⁵。久恒さんも、自分自身をマネジメントする方法を提唱しています²。(尊敬する人がドラッカーというのは、まあ当たっています)

以下、えんえんと続く、、。

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「名言との対話」4月9日。竹内浩三「戦死やあわれ 兵隊の死ぬるや あわれ 遠い他国で ひよんと死ぬるや だまって だれもいないところで ひょんと死ぬるや ふるさとの風や こいびとの眼や ひょんと消ゆるや 国のため 大君のため 死んでしまうや その心や」

竹内 浩三(たけうち こうぞう、1921年(大正10年)5月12日 - 1945年(昭和20年)4月9日)は、日本詩人。享年23。

三重県伊勢市出身。富裕な商家に生まれる。漫画好きの少年は、母を12歳で母を亡くし18歳で父を失う。漫画を愛した。1940年、日本大学専門部映画科(現在の芸術学部)に入学。手紙を通じて映画の伊丹万作監督の知遇得る。1942年、同郷の友人たちと『伊勢文学』を創刊するが、」その年に日大を繰り上げ卒業し、入営。1945年、フィリピン・ルソン島で戦死したとされる。享年23。

若くして亡くなったこの人は、入営中の23歳から『筑波日記』(1944年1月1日から)の中に残された詩によって、存在が知られるようになった。1943年から1956年にかけて中学校時代の友人の中井利亮によって『伊勢文学』に「骨のうた」「望郷」などが掲載された。1956年には中井利亮編『愚の旗ーー竹内浩三作品集』が刊行された。

1980年、伊勢市に「戦死ヤアハレ」の詩碑が建立される。1982年NHKラジオ夏期特集番組「戦死やあわれ」が放送される。1984年『竹内浩三全集』。1989年『竹内浩三作品集』。2001年『竹内浩三全作品集』。2003年『戦死やあわれ』(岩波現代文庫)。

2004年には稲泉連『ぼくもいくさに征くのだけれど 竹内浩三の詩と死』が刊行され、第36回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。2008年、NHLで「ハイビジョン特集 シリーズ青春が終わった日 日本が見えないーー戦時下の詩と夢・竹内浩三ーー」が放送されている。2012年『定本 竹内浩三全集 戦死やあはれ』。

23歳で戦死するも、その後も現在まで、書籍やテレビなどで、その作品が何度も紹介されている。その詩のインパクトがよほど強いに違いない。

竹内浩三を伝えゆく会」というウェヴサイトに詩が載っている。いくつかの代表作と思われる詩を紹介するが、どの詩も哀しいほど美しく、そして胸を打つ。

 

「骨のうたう」(竹内浩三・作 中井利亮・補作)

戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
遠い他国で ひよんと死ぬるや
だまって だれもいないところで
ひょんと死ぬるや
ふるさとの風や
こいびとの眼や
ひょんと消ゆるや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や

白い箱にて 故国をながめる
音もなく なんにもなく
帰っては きましたけれど
故国の人のよそよそしさや
自分の事務や女のみだしなみが大切で
骨は骨 骨を愛する人もなし
骨は骨として 勲章をもらい
高く崇められ ほまれは高し
なれど 骨はききたかった
絶大な愛情のひびきをききたかった
がらがらどんどんと事務と常識が流れ
故国は発展にいそがしかった
女は 化粧にいそがしかった

ああ 戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
こらえきれないさびしさや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や

「ぼくもいくさに征くのだけれど」

街はいくさがたりであふれ
どこへいっても征くはなし かったはなし

三ヶ月もたてばぼくも征くのだけれど
だけど こうしてぼんやりしている

ぼくがいくさに征ったなら
一体ぼくはなにするだろう てがらたてるかな

だれもかれもおとこならみんな征く
ぼくも征くのだけれど 征くのだけれど

なんにもできず
蝶をとったり 子供とあそんだり
うっかりしていて戦死するかしら

そんなまぬけなぼくなので
どうか人なみにいくさができますよう
成田山に願かけた

 

「日本が見えない」

この空気
この音
オレは日本に帰ってきた
帰ってきた
オレの日本に帰ってきた
でも
オレには日本が見えない

空気がサクレツしていた
軍靴がテントウしていた
その時
オレの目の前で大地がわれた
まっ黒なオレの眼漿(がんしょう)が空間に
とびちった
オレは光素(エーテル)を失って
テントウした

日本よ
オレの国よ 

オレにはお前がみえない
一体オレは本当に日本に帰ってきているのか
なんにもみえない
オレの日本はなくなった
オレの日本がみえない

 

「愚の旗」

人は、彼のことを神童とよんだ
小学校の先生のとけない算術の問題を、一年生の彼が即座にといてのけた。先生は自分が
白痴になりたくなかったので、彼を神童と言うことにした。

人は、彼を詩人とよんだ。
彼は、行をかえて文章をかくのを好んだからであった。

人は、彼の画を印象派だと言ってほめそやした。
彼は、モデルなしで、それにデッサンの勉強をなんにもせずに、女の画をかいていたからであった。

彼はある娘を愛した。その娘のためなら、自分はどうなってもいいと考えた。
彼はよほどのひま人であったので、そんなことでもしなければ、日がたたなかった。

ところが、みごとにふられた。彼は、ひどく腹を立てて、こんちくしょうめ、一生うらみつづけてやると考え、その娘を不幸にするためなら自分はどうなってもいいと考えた。
しかしながら、やがて、めんどうくさくなってやめた。

すべてが、めんどうくさくなって、彼はなんにもしなくなった。ニヒリストと言う看板をかかげて、
まいにち、ひるねにいそしんだ。
その看板さえあれば、公然とひるねができると考えたからであった。

彼の国が、戦争をはじめたので、彼も兵隊になった。

彼の愛国心は、決して人後におちるものではなかった。
彼は、非愛国者を人一倍にくんだ。
自分が兵隊になってから、なおさらにくんだ。

彼は、実は、国よりも、愛国と言うことばを愛した。

彼は臆病者で、敵がおそろしくてならなかった。はやく敵をなくしたいものと、敵をたおすことにやっきとなり、勲章をもらった。

彼の勲章がうつくしかったので、求婚者がおしよせ、それは門前市をなした。

彼は、そのなかから一番うつくしい女をえらんで結婚した。
私よりもいい人を…と言って、離れていったむかしの女に義理立てをした。

なにをして生きたものか、さっぱりわからなかった。なんにもせずにいると、
人から、ふぬけと言われると思って、古本屋をはじめた。

古本屋は、実に閑な商売であった。
その閑をつぶすために、彼は、哲学の本をまいにち読んだ。
哲学の方が、玉突きより面白いというだけの理由からであった。

子供ができた。
自分の子供は、自分である。自分は哲学を好む、しかるが故に、この子も哲学を好むとシロギスモスをたてた。
しかし、子供は、玉突きを好んだ。
彼は、一切無情のあきらめをもって、また、ひるねにいそしんだ。

一切無情であるが故に、彼は死んだ。

いろはにほへとちりぬるを。