横浜で2連発。まず弟と2時間の昼食。日本酒の熱燗を飲んだので、顔が赤い。
続いてJAL成田客乗のミニ同窓会に参加し2時間。松尾君の上京に合わせて集合。向かって右から望月、山崎、松尾、堀、私。話題は「生成AI」、企業のトップ人事、、、。同期の話題:大西、柏原、石井、久保山
横浜線で八王子、JRに乗り換えて立川。オステオパシーで体調を整える。
自宅に戻る。ズームで3連発。
- 20時:デメケン・ミーティング:鈴木、松永、田原。
- 21時:「アクティブ・シニア革命」編集部:深谷、鈴木、近藤、松本。怜哉。
- 22時:力丸君と図解プロセッサの打ち合わせ
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早川洋平『会う力』(新潮社)が到着。
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「名言との対話」3月17日。佐藤忠男「撮影所は学校だった」
佐藤 忠男(さとう ただお、1930年10月6日 - 2022年3月17日)は、日本の映画評論家、編集者。享年91。
新潟県生まれ。工場で働きながら『映画評論』の読書投稿欄に映画評を投稿。また、1954年に『思想の科学』に大衆映画論「任侠について」を投稿し、鶴見俊輔の絶賛をうける。1956年刊行の初の著書『日本の映画』でキネマ旬報賞を受賞。1957年に『映画評論』の編集部員になるよう誘われ、上京する。「映画評論」「思想の科学」の編集長をへてフリー。演劇、芸能、教育の分野でも評論活動をおこなった。
日本映画学校校長(1996年~2011年)、日本映画大学映画学部教授、日本映画大学学長(2011年~2017年)などを歴任した。
1996年に紫綬褒章を受章。その他に、勲四等旭日小綬章、芸術選奨文部大臣賞、韓国王冠文化勲章(韓国)、レジオンドヌール勲章シュヴァリエ、芸術文化勲章シュヴァリエ(フランス)等を受賞。第7回川喜多賞を、妻の佐藤久子とともに受賞。2019年、文化功労者。
佐藤忠男『独学でよかった』(中日映画社)を読んだ。副題は「読書と私の人生」だ。
「映画というものは森羅万象を写し出すものである」。「映画評論家はそれにコメントを加える」。「これは恐るべき仕事である」。「現代の聖職ともいえるのではないか」。
「映画は古今東西のことをなんでも描くし、その範囲は近年急速に拡大するいっぽうである」。「たとえ浅く薄くても、それほど広い範囲の知識を求めつづけなければならない立場というのはありがたいものだ」。私にも映画鑑賞を趣味とする友人、知人がいる。今更ながら、高い教養を持つ彼らは世の中のことを映画で勉強していたことに気がついた。今からでも遅くない。もっと映画をみることにしよう。
佐藤は自身に学歴が乏しいせいか、映画監督たちの学歴を調べていて興味深い。溝口健二は小学校だけ。衣笠貞之助と島津保次郎は小学校と英語塾。成瀬巳喜男は工手学校。新藤兼人は小学校高等科卒。内田吐夢は中学2年で学校を追放される。市川崑は中学3年中退。旧制中学卒は、村田実、伊藤大輔、伊丹万作、マキノ雅弘、小津安二郎、山中貞雄、豊田四郎、吉村公三郎。田坂具隆は旧制高校卒。
昭和10年代からは大学出が珍しくなくなる。今井正(大学中退)、山本薩夫。戦後には人気が出て、今村昌平、山田洋次、大島渚など一流大学出の秀才が当たり前になっていく。
日本映画の最高峰は、溝口健二(小学校)、小津安二郎(旧制中学)、黒澤明(旧制中学)という3人が不動の巨匠である。佐藤は学歴無用論に立つわけではないが、撮影所は学校だったというのが結論だ。仕事そのものが学びであり、研究だった。私も企業も学校だと思う。仕事とは実にありがたいものなのだ。
今村昌平は2年制の横浜放送映画専門学院を起ち上げた。それが3年制の日本映画学校になり、2011年に4年制の日本映画大学になる。このプロジェクトの成功の鍵は、第一線の監督、技術者をそろえて、まるで撮影所のような学校をつくったことにあると後にこの学校を引き受けた佐藤は総括している。監督だけでなく、技術者、評論家まで含めた映画人には広い知識を持つ教養人、深い人間観察眼を持った人間の研究家という資質が必要である。
映画は作り手の人間性と教養が最も厳しく問われる。創立者の今村昌平は「個々の人間観察をなし遂げる為にこの学校はある」と書いている。独自の哲学や体系化された世界観を持つ人格を誕生させることが目的であり、本物の映画作りを教えるこの学校からは映画に関わる人物・人材が続出している。
佐藤忠男は映画文化の発展のはじまりから、読書という武器と自ら鍛えた眼力で、映画文化の同伴者として走ってきた。これは幸運であった。映画という分野を息せき切って走り続けた独学の人・佐藤忠男という人格の成立過程と、そこで得た見識は興味深い。そしてこの独学者は研究者を続けながら、最後は学校での人作りに精を出している。独学の凄みを感じさせてくれる生き方だ。