NHK全国短歌大会に夫婦で参加する予定だったが、気温が昨日から18度も下がり真冬並みとなり、雨も降っているので、中止した。そのかわり、近所の温泉で過ごす。
夜は20時からテレポート学校「セナリ学院」のプレ授業を受講。平野友康校長のこの生成AIの学校には80人ほどが参加している。AI生成を実践的に学ぶオンラインスクール。
スタンダードプラン
- テレポート
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ChatGPTの活用法
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画像・音楽・映像の生成
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企画書やプレゼンテーション技術
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AIを使ったデータ活用とリサーチ
プロプラン
スタンダードプランのすべての内容に加えて・・・
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AIエージェントとの共創
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映像、音楽、ライティング制作
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都市設計やまちづくりシミュレーション
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AIアプリケーション開発
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今日の収穫
スペンサー(イギリスの哲学者)「人生は石材である、これに神の姿を彫刻しようと、悪魔の姿をほりだそうと各自の心のままである」
ルーテル(ドイツの宗教改革者)「死は人生の終末ではない、生涯の完成である」
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「名言との対話」3月29日。鈴木健二「健康は人間が自分に贈ることのできる最高のプレゼントです」
鈴木 健二(すずき けんじ、1929年1月23日 - 2024年3月29日)は、アナウンサー・司会者・作家。享年95。
江戸っ子。旧制弘前高校から東北大学で美学を学ぶ。NHKにアナウンサーとして入局。『歴史への招待』や『クイズ面白ゼミナール』などの司会者として高視聴率を叩き出したことで知られる。 大型中継番組を、独創的なアナウンスでいずれも成功させた。1983年から1985年まで、『NHK紅白歌合戦』で白組司会を担当した「最後の職人アナウンサー」である。「目線」は鈴木健二の造語。
NHK退職後は、「一人の友達もいなかった。人の役に立つ仕事なんて何一つやっていなかったことにも気付き、「(定年後は)人のために生きる」と決心し、熊本県立劇場の館長に就任し、10年間にわたり伝承芸能の復元、村おこしや障害者と健常者のコンサートの開催など「公益性」の高い仕事に従事する。1998年には青森県立図書館館長(1998-2004年)と青森近代文学館館長に就任した。
1982年に刊行された『気くばりのすすめ』(講談社)は単行本332万部、文庫本を含むと400万部以上の大ベストセラーとなった。 「気くばりとは、あなたの目の前で瞬間に起こった事柄に対して、あなたが小さな勇気を示して素早く行動すること」だそうだ。
以下、折に触れて私がメモした鈴木健二の言葉。
- 「スケジュールをいかに組むかはわたしの最大の仕事である」。仕事・講演・執筆と超多忙な日々を全速力で走った鈴木健二ならではの言葉だと思う。講演の前後を活用して旅をしていた。持ち時間は限られているのだから、組み合わせや優先順位に関する方針が重要になってくる。
- 「完全な組織人間にはならずに、こんな組織と心中してたまるかと、冷ややかに組織のあり方、行こうとする方向を見つめるゆとりがなくてはならない」。勤め人であった私の心に響いた言葉だ。
- 「生きるエネルギーは十代の青春も二十代の希望も、三十代の前進も、四十代の飛躍も、五十代の最高潮も、六十代の失われてゆくときも、変わることなく燃やし続けなければならないのだ」
NHKの名アナウンサーとしての激務をこなしながら、出版社からの注文に応じて本を長い間継続的に出していた。この人は親を含む家族のために大きな家を建ててしまい、その借金返しのために猛烈に働いたと後にある本で多作の原因を説明していた。
2011年に訪問した飯田高原の九州芸術の杜には四つの美術館があった。榎木孝明美術館。前田真三・晃風景写真館。前田真三・晃風景写真館。そして、大野勝彦美術館では、農作業の最中に機械で両手を失った大野勝彦が、それ以来描き続けてきた絵と言葉が一緒になった作品集が展示されていた。義手を使った作品群だ。熊本県立美術館の鈴木健二館長の「この人は本物だ」という推薦文があった。
映画監督の鈴木清順がテレビ番組でNHKの鈴木健二アナウンサーを「あれはうちの弟」と発言しスタッフや観客が驚いたことある。有名な健二も清順も、兄弟であることをあえて言わなかったのである。
鈴木健二の著書は200冊を超え、3500万部以上を売り上げた。私は鈴木健二の本を多く読んでいる。また私が30代の初めに『私の書斎活用術』という本を出したとき、次のような推薦文をもらっって感激した。
「孤独な空間・書斎:文学や理論を純粋に受けとめることのできる十代の時、私は津軽富士が眼前に開ける弘前城の樹陰で、はたまた四季折々に光る阿武隈川の土手に寝ころび、白雲の下で本を読んだ。そこが書斎であった。いま私の狭い家には、書を斉うる意味での部屋はない。しかし、気持ちさえあれば、車の中でも飛行機でも、あるは僅かな時間でも、読めもし書けもする。必要なのは孤独になろうとする精神だし、孤独になれる空間は、すべて書斎なのである」
大和出版中心に各年代ごとの本を鈴木はシリーズで出てしいる。『男が10代にやっておくこと 人生を確かに歩み出すために』(大和出版、1985年)。『男は20代に何をなすべきか ”人間の基本“を身につけるために』(1982年7月)。『30代に男がしておかなければならないこと』(1980年11月)。『男が40代にやっておくべきこと 人生の勝負はここで決まる』(1980年5月)。『男が50代になすべきこと』(1989年) 。『男50代自分自身を生きるヒント』(1996年9月)。『人は50代60代に何をなすべきか 「老前」の生き方が「老後」の生き方を決める』(グラフ社、2004年6月)。『60歳から65歳に男として想うこと この5年間を最高に生きる20章』(1995年4月)。『老活のすすめ 六十代からのいい生き方、いい老い方』(PHP研究所。 2013年)。
『何のため人は生きるか 人生の礎を求めて90年』という本も出ている。90歳で書いた本、これも読むことにしよう。
内容は、例えば『30代に男がしておかなければならないこと』は、出世や行動力、転職、妻
『』や子どもとの関係、親の老後まで、人生のあらゆる局面をカバーした実践的な内容だ。鈴木健二の人生という荒波を生きる航海の指針があった。そういう生き方に憧れた。
私も数年前に50歳前後をターゲットとした生き方の本を刊行した。それで30代、40代、50代の本が揃った。機会があれば、10代、60代以降も書いて一気通貫したいとも空想する。
尊敬するピカソが日記に「多くの人は日記を書く。自分は日記のかわりに絵を描く」と書いた言葉に感動した鈴木は「多くの人は日記を書く、それならば私は原稿を書く」と決心したという。原稿書きは日記の代わりだったのだ。それが膨大な著作になっていったのだ。
鈴木健二は「健康は人間が自分に贈ることのできる最高のプレゼントです」という名言を吐いている。糖尿病、尿路結石、動脈瘤、などを経験した人の言葉としてとらえると心に響く。その鈴木健二は95歳という天寿を全うした。健康を自分にプレゼントした生涯であった証だろう。