横浜で兄弟妹会。弟のご苦労さんと妹の激励が趣旨。横浜の「みなと寿司」。ゴールデンウイークの日曜日、横浜駅の込み方はすさまじい。
弟と妹のどちらも、この互いの配偶者も交えた「兄弟妹会」(きょうだいかい)が一番楽しいそうだ。おいしい食事と会話で、あっという間の3時間、アー愉しかった。この6人でいつまでも兄弟妹会をやりたいものだ。
終わって16時に鎌倉で、息子夫婦ともうすぐ2歳の孫娘と会う。連休中に我が家に訪ねてくることになった。最近引っ越した長谷まで送る。
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「名言との対話」4月27日。北林谷栄「役者は自分の体を利用して、自分でない人間とその人生を生きるわけだから、それだけ強烈な想像力がなくちゃ始まらないし、人間を見るのが好きで好きで仕方がないくらい、自分を含めた人間への興味、好奇心がなくちゃあ、ねえ」
「役者は他人の書いたセリフを覚えて言うんじゃない。自分自身の中から出た言葉でなければね」
北林 谷榮(きたばやし たにえ、1911年5月21日 - 2010年4月27日)は、日本の女優・声優。享年98。
劇団民藝の創設に参加し、30代から数多くの老け役を演じた「日本一のおばあちゃん女優」。北林谷栄という芸名は20歳の頃に長野県を旅した時に、林、谷川の美しさに感動してつけたという。
初めての老け役は27歳の時だ。宇野重吉の強い勧めによるものであった。30代後半で、既に老女役は北林といわれるようになる。日本を代表するおばあちゃん役者として広く知られた。映画「ビルマの竪琴」「キクとイサム」、舞台「粉本楢山節考」などお婆さん役は100を超える。特に、田舎の農村・漁村・山村で生活するおばあさんを演ずることが多かった。衣装は自前である。古着など、「生活の垢」がついたキモノを集めて愛蔵し、さまざまな役に応じて着なしていた。
1958年から2002年までの44年間、間断なく賞を受賞しており、名演技を長く続けたことがよくわかる。
芸術祭奨励賞(1958年)ドラマ『帰郷』の作花小冬の演技で。第10回ブルーリボン賞主演女優賞(1959年)『キクとイサム』の演技で。第14回毎日映画コンクール女優主演賞(1959年)『キクとイサム』の演技で。サンフランシスコ国際映画祭最優秀助演女優賞(1960年)『にあんちゃん』の演技で。紀伊国屋演劇賞個人賞(1972年)『泰山木の木の下で』の演技で。ギャラクシー賞(1973年)『ラッコの金さん』『静かなる爆薬』の演技で。紫綬褒章(1978年)。紀伊国屋演劇賞個人賞(1982年)『タナトロジー』の演技で。放送文化賞(1988年)。第65回キネマ旬報賞主演女優賞(1991年)『大誘拐』の演技で。第15回日本アカデミー賞最優秀主演女優賞(1991年)『大誘拐』の演技で。第46回毎日映画コンクール女優主演賞(1991年)『大誘拐』の演技で。東京スポーツ映画大賞新人賞(1991年)『大誘拐』の演技で。紀伊国屋演劇賞個人賞(1997年)『黄落』の脚本で。東京都文化賞(1999年)。読売演劇大賞女優賞(1999年)『根岸庵律女』の演技で。日本映画批評家大賞功労賞(2001年)。第26回日本アカデミー賞最優秀助演女優賞(2002年)『阿弥陀堂だより』の演技で。第76回キネマ旬報賞助演女優賞(2002年)『阿弥陀堂だより』の演技で。山路ふみ子映画賞文化賞(2002年)。
子どもの頃にみた『にゃんちゃん』や、映画『となりのトトロ』の(カンタの)ばあちゃんの声、テレビドラマなど、この人の演技はよくみていたことになると改めて思った。
おばあさん役の系譜というのがある。飯田蝶子、北村谷栄、近年では樹木希林だ。「役者は他人の書いたセリフを覚えて言うんじゃない。自分自身の中から出た言葉でなければね」という北林谷栄は ドラマでのお婆さん像のパターン化に対して疑問を抱くようになる。
「役者は自分の体を利用して、自分でない人間とその人生を生きるわけだから、それだけ強烈な想像力がなくちゃ始まらないし、人間を見るのが好きで好きで仕方がないくらい、自分を含めた人間への興味、好奇心がなくちゃあ、ねえ」
老いと死をモチーフとして自ら脚本を書き上げたのが、北林谷栄の代表作「粉本楢山節考」であった。
「大誘拐」という映画の一シーンもYOUTUBEで見たが、迫力のある老女役も素晴らしい。NHKアーカイブ「あの人に会いたい」では、「70年、80年の年月を背負っている人間と考える」と役作りを語っている。
一般的なおばあさんは存在しない。それぞれ、長い間に違った歩みをしているのだから、それにふさわしい演技というものがあるというわけだ。女優を土台に、声優、脚本家、演出家、『蓮以子八〇歳』『九十三齢春秋』などの本の執筆と仕事の幅広げていく。想像力と好奇心のかたまりの北林谷栄は、役作りを長い間続け、最後は本当のおばあさんになった。