5月の幸福塾は、「新・代表的日本人」シリーズの「日本への回帰」を講義した。
萩原朔太郎、川端実、中野孝次、加島祥造、池田満寿夫、高畑勲、大野慶人、村上隆、野中郁次郎を取り上げた。
「日本への回帰」を宣言した詩人の萩原朔太郎から、「スーパーフラット」を提唱する村上隆まで、調べていて勉強になった。人物は当てる光で違った顔がみえる。それが人物論の面白さでもある。
塾生の学びから。
- 今日は、新・代表的日本人「日本への回帰」というテーマで、海外の文化や知識を学んだ後に「日本」を深く理解・研究し、自らの世界を広げ、深めていった方々について学びました。例えば詩人の萩原朔太郎。まさに『日本への回帰』という著作があり、「西洋的な知性を経て、日本的なものの探求に帰ってきた」という言葉は、今日のテーマそのものを表していて強く印象に残りました。 紹介された人物の中で特に身近に感じたのは中野孝次と高畑勲です。中野孝次は『清貧の思想』や『本阿弥光悦行状記』を読んだことがあり、すっかり日本研究者だと思っていましたが、元々はドイツ文学者だったと知り、意外でした。また高畑勲は『火垂るの墓』や『かぐや姫の物語』などジブリ作品で親しんでいましたが、フランス文学から出発したということを知り、新たな発見がありました。他にも、暗黒舞踏の大野慶人や現代芸術の村上隆など、海外の文化や知識から転じて日本へ回帰し、その後日本を深掘りして再び世界へ広がるという流れがあることも、興味深く伺いました。結局、「日本」という足元をしっかりと固めることが大切であり、欧米の考え方を解釈しているだけではしっくりこない、自分のやってきたことを自分の言葉で語ることの重要性などに話が及んだことも、大変意義深く感じました。次回の幸福塾も「日本への回帰」とのことで、大変楽しみにしています。ありがとうございました。
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「新・代表的日本人」もいよいよ7番目の「日本への回帰」に入りました。「日本への回帰」といっても「西洋から日本へ」と「日本とは何かを追求」という2つの大きなテーマがあります。今日は「西洋から日本へ」。 日本近代詩の父・萩原朔太郎、カワイイ文化の発見者の洋画家・川端実、清貧の思想の中野孝次、タオイストのアメリカ文学者・加藤祥造、マルチタレントの池田満寿夫、じゃりン子チエや火垂るの墓の高畑勲、BUTOHダンサーの大野慶人、草間彌生と並んで世界で最も人気のある芸術家・村上隆、知的創造経営の野中郁次郎が紹介されました。いずれも、海外で活躍した後日本に戻り回帰した人、または日本的なものを保持しつつ海外で活躍している人です。村上隆の説明の所にあった、「日本ではもうやらない。」と宣言したことは印象的でした。つまり、日本への回帰と言っても、日本の社会の硬直性など、よさを発揮するのを妨げているものがあるということです。これは野中郁次郎が日本の失われた30年の原因を形式主義や創造性の欠如だとしていることとつながっています。本日の結論として、いったん海外に出て改めて日本を見直し回帰した人が多かったということ、日本人としての基礎基本をきちんと持った上でコスモポリタンとして活躍できるということ、足元を深く掘ることが大切でそのためには体重をかけなければいけない、ということを改めて学びました。
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今回は「日本への回帰」のうち、「西洋から日本」への回帰をテーマとしていました。具体的には、萩原朔太郎、川端実、中野孝次、加島祥造、池田満寿夫、高畑勲、大野慶人、村上隆、野中郁次郎の計9人のお話がありました。「西洋から日本への回帰」とは、西洋文学や文化を学んだり、西洋で実際に生活したり、活動したりした中で、最終的に日本的なものや日本文化に回帰したということを指し、新たなもの、日本的なもの以外のもの、西洋的なものをやり始め、深く触れたことで、かえって日本文化に惹かれ、より日本的なものを取り入れるようになったとのこと。 「異文化との触れ合いを通じて日本文化をより深く理解することができる。」とよく聞きますが、こういう素晴らしい人たち(外国からの評価も高い人たち)の存在がそれを証明していると改めて思いました。私は、日本文化の良さはまず日本人が理解することが大切だと思っていますので、今回ご紹介いただいた方々は正に「代表的」日本人だと思いました。そして、異文化に触れることが少ない方には是非とも彼らのような日本人のことを知り、学ぶことを通じて、日本文化の良さや課題等に気づいてほしいと思いました。次回も「日本への回帰」がテーマ。私もまだまだ日本について理解できていませんので、引き続きよろしくお願いいたします。
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「名言との対話」5月21日。加瀬俊一「公式な交渉の時には、いつも自分の逃げ道を考えておく必要があるし、 相手にも逃げ道をつくってやらないといけない」
加瀬 俊一(かせ としかず、1903年(明治36年)1月12日 - 2004年(平成16年)5月21日)は、日本の外交官、外交評論家。外交評論家の加瀬英明の父。享年101。
千葉県旭市出身。東京商大在学中に外交官試験に合格し、1925年に外務省に入省。アメリカへ国費留学し、アマースト大学とハーバード大学大学院で学ぶ。
1929年3月外交官補・アメリカ駐在、1935年11月第二次ロンドン海軍軍縮会議全権委員随員、1937年9月在英国日本国大使館三等書記官、1938年6月在英国日本国大使館二等書記官、1940年11月外務大臣秘書官、1941年7月外務省通商局三課長、1941年10月外務省アメリカ局一課長、1942年11月外務省政務局六課長、1943年5月兼外務大臣秘書官、1945年2月兼大東亜大臣秘書官、1945年6月外務省政務局五課長、1945年8月情報局第三部長、1945年11月情報局報道部長、1945年12月廃官。国連加盟に尽力し、1955年に初の国連大使。初代ユーゴスラビア特命全権大使。再退職後に外務省顧問。
加瀬俊一た仕えた上司は以下。松岡洋右(外相秘書官)、広田弘毅、東郷茂徳(外相秘書官)、重光葵(外相秘書官)、吉田茂。首相顧問として佐藤栄作(ノーベル平和賞受賞に貢献)、中曽根康弘に仕えた。
外交官として任地では、チャーチル、スターリン、ヒンデンブルグ、ヒトラー、ムッソリーニ、チャーチル、ロイド・ジョージなどと親交を深めている。
1945年9月2日に全権の重光葵と梅津美治郎が降伏文書に署名する。このときの筆頭随員だった。二列目にシルクハットをかぶっている写真と、署名に介添えをする写真がある。
2006年にハワイのミズーリ号記念館を訪問したことがある。。米国最後の戦艦。第二次大戦中は太平洋を中心に活動。硫黄島上陸作戦に参加、沖縄攻撃作戦では海上から艦砲射撃を行う。この戦艦は昭和20年8月29日、東京湾で降伏文書調印式が行われたことで有名だ。マッカーサー元帥率いる連合国に対し、日本側は重光葵全権率いる日本政府代表団との間での調印式である。ミズーリ号の降伏文書には、政府代表重光葵と日本皇軍代表梅津美治郎代表のサインがあった。当時、重光は外相、梅津は参謀総長だった。この二人とも大分県人である。重光は国東町、梅津は中津出身。マッカーサーのサインの後には、米国、中国、英国、ソ連、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランドの各代表のサインがみえる。2番目は中国だった。あの戦争は太平洋戦争でもあったが、大東亜戦争でもあったのだ。真珠湾攻撃より10年前の1931年には満州事変が起こっていた。日本は中国にも負けたのだ。
外務省には同姓同名の加瀬俊一がいた。区別するため後輩の加瀬俊一は「小加瀬」と呼ばれている。野村證券でも田淵という社長にまで昇進した人が二人いて、後輩はの方は「小田淵」と呼ばれていたことを思い出した。
『第二次世界大戦秘史』、『現代史の巨人たち』、『日本外交の主役たち』、『加瀬俊一回想録』、『ミズーリ艦上の外交官』など長く外交の最前線に立った経験を著作として発表している。加瀬は歴史の証人であった。
加瀬俊一は、高齢になっても元気に活動し、鎌倉の自宅で101歳でなくなったセンテナリアンであった。加瀬の『晩年の美学 : 「残灯期」の愉しみを語ろう』も読んでみたい。晩年を「残灯期」と呼んでいる。
「窮鼠猫を噛む」という箴言がある。日本が対米戦に突入したのは、進退窮まった鼠が猫に立ち向かったということなのだろう。『日米開戦は回避できた』という著作もある。加瀬によれば、外交交渉はこういった事態に陥らないように、双方に逃げ道を用意し面子をつぶさないように、気を配ることが大事だと述懐している。これはどんな仕事をする上でも役に立つ貴重なアドバイスだ。