寺島実郎の「世界を知る力」(8月。12日に収録)。
- 7月の参院選は「与党の大敗」(自民・公明で19議席減)。立民と維新は横ばい。「泰山鳴動して鼠二匹」(国民民主と参政党)。保守の融解・核分裂。右派の安倍・二階派は4割落選。その票は参政党(右のポピュリズム。4割は高市支持)へ。リベラル保守層の票は国民民主へ。保守の分裂だった。
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石破退陣をめぐってケジメ・責任の内ゲバで自民党は恥をさらしている。「手取りを増やす」「ジャパンファースト」などでは日本の課題は解決しない。テーマは「日本経済の再生」であり、トランプのアメリカとどう向き合うかだ。ポピュリズムの克服は戦後民主主義の試練だ。少数与党時代は政策能力の試金石。健全なナショナリズムは大事だが、中国人、アジア人を拒否するという屈折した排外主義には問題がある。戦前のアジア主義者のようにアジアへの共感はない。 - 世界経済:IMF見通し(7月末)ではトランプ関税の動揺のあった4月段階よりも総じてアップ。世界経済は3.0%成長。先進国ブロックではアメリカ1.9%。欧州1.0%。日本0.7%。BRICSブロックではロシア0.9%、インド6%、中国4.8%。アセアン5と台湾は堅調。世界全体の貿易量は2.6%。
- トランプ関税:日本は15%(あいまい)。親米のフィリピン、シンガポールには配慮。マレーシア、インドネシアは19%。近隣のメキシコ30%、カナダ35%。ブラジル50%、インド50%(?)。2次関税の話もあり。BRICSは反米同盟化? アメリカが主導してきた世界貿易のルールに違反。アメリカは孤立の道へ。日本は国際協調と多国間ルールを尊重することを主張すべきだ。
- 注目点:トランプのFRBへの圧力で9月に利下げか。アメリカは輸入インフレへ。ドル安・円高の流れになるかどうか。雇用統計の大幅下方調整。インドはロシアからエネルギーを輸入しており2次関税がかかるか? 日本はLNGをロシアから輸入している。これはどうなるか。危うい。
- 日本は何故戦争に至ったのか:国内の二重構造の歪み(下部は神道国家と上部は近代国家の矛盾)。世界は100年前の状況と酷似。1921年ワシントン条約。アメリカは「アメリカファースト」「フォーディズム」「株ブーム」「貯蓄から投資へ」。
- 戦後日本は1945年の世界GDP比3%から1975年18%までの半世紀で世界2位となった。外部要因は2つ。中国が割れてアメリカの投資が日本にむかったことと、多国間協調主義の時代の恩恵をうけて復興。日本は高い工業生産力を持つ通商国家国家モデルを完成させ、軽武装経済国家となった。
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内部要因:人口の膨張(1945年7215万人。2008年1.28億人(団塊世代は1000万人)。それから600万人減っている)。豊かさへの願望が経済を押し上げた。政府主導の統制経済が有効に働いた。 - 日本はなぜ埋没したのか:世界GDP比はピークの18%から2024年3.6%、2025年3.5%へ。外部要因:中国を始めとするアジアダイナミズムの突き上げに、後退するアメリカへの過剰依存によって、ついていけなかった。
- 内部要因:アベノミクスという調整インフレで楽していこうとなり、向上心、闘争心、創造力が減退した。そして人口減少と少子高齢化時代を迎えた。
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9月にはどうすべきかを論じたい。
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「名言との対話」8月17日。柳原良平「つかめる夢はつかんだ。さらに夢をつくろう」
柳原良平(やなぎはら りょうへい、1931年8月17日―2015年8月17日)は、日本のイラストレーター、漫画家、アニメーション作家、エッセイストである。
1950年代初頭、トリスウイスキーの広告に登場した切り絵の三等身キャラクター「アンクルトリス」は人気を博し、高度成長期を象徴する国民的キャラクターとなった。その作者が柳原良平である。『サントリー天国』『サントリークォータリー』や、新聞連載の「新入社員諸君。一歩踏み込め!」「沈着・冷静・果断」「一日一日を大事に使えば、必ず立派な人間になれる」など、山口瞳がビジネスマンを励ます文章に寄り添う柳原のイラストは好評を博した。私もモーレツビジネスマン時代、これらの絵や言葉に親しんでいた。
柳原はイラストレーター、デザイナー、漫画家、アニメーション作家、エッセイストとしての仕事を存分に楽しんだ。手がけた装丁は生涯で300冊以上。大胆にデフォルメした切り絵と必要最小限の線、そして白目に浮かぶ黒目だけで表情を的確に表現する技法が特徴である。
また柳原は子どもの頃からの“船キチ”で、自宅兼アトリエであった横浜・山手のモダン建築からは海が見えた。「船の画家」とも呼ばれ、船会社の名誉船長や海のパビリオンの名誉館長、海洋関係財団の理事など、多彩な肩書きを持った。東京に出るときは、夕暮れの銀座で画廊をのぞき、飲食を楽しみ、なじみの店を一巡するのが常だった。
関係者によれば、鋭い観察眼、旺盛な仕事量、締め切り厳守、期待以上の成果と、その仕事ぶりへの評価は高い。船長姿でウイスキーをぐいぐいあおってバタンと倒れる姿が目撃されるなど、愉快でおおらかな人柄も慕われた。
広島県尾道市には「アンクル船長の館」(2009年閉館)があった。また、横浜みなとみらい21地区の横浜みなと博物館内には、常設展示室「柳原良平アートミュージアム」が2018年に開設されている。ここには訪問したこともある。楽しいミュージアムだった。
柳原良平は誕生日と命日が同じだ。なぜか幸せな感じがする。そういう人で思い出す人は、詩人の塚本邦夫、沖縄県知事の大田昌秀映画監督の小津安二郎がいる。
冒頭の言葉は『柳原良平の仕事』に収められた2001年のインタビューのタイトルである。インタビューの最後で彼は「あと30年はがんばらなくては」と語った。当時70歳だった柳原は、100年人生を見据えていたことになる。実際には84歳で没したが、その心意気や「よし!」という気迫は生涯衰えなかった。