久米信行さんの明治大学での「ソーシャル&コミュニティビジネス論」の本日の講義「人生は恩師で決まる」で、私も紹介されたらしい。
林雄二郎、森政広、日下公人という歴史上の大物と並んで、盟友の橘川幸夫さんと一緒に「恩師」のリストに入れてもらっているのに驚いた。
久米さんは2020年9月からズーム上で始めた「図解塾」を受講してくれて、図解に目覚めた人だ。「箇条書き脳」が「図解脳」に変わっていったと語ってくれた。これが「図解の恩師」。
2022年7月20日の日経産業新聞に「DX時代のお墓と供養」という寄稿文で、私の図解WEBを紹介してもらったことがある。この「ライフワーク曼荼羅」は「わたしの履歴書」という紹介だった。これが「自分史の恩師」。
久米さんは多摩大客員教授時代に私の「立志人物伝」を一学期毎回受講してくれた。そして私の退任記念講義(2019年1月17日)にも参加してくれて、素晴らしい実況報告を書いてくれた。
退任記念講義ーーー「これまでの私、これからの私」。「失敗」と「未来」を語る。 - 久恒啓一のブログ「今日も生涯の一日なり」
以下、久米客員教授のレポート。
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【多摩大学 久恒啓一副学長 退任記念講義 これまでの私 これからの私】
今日は「らしくない」けれど「らしい」特別な講義を聴きました。
私が尊敬する図解と名言の師匠 久恒先生が、専任教授として登壇される最後の講義です。まず「終わり」なのに、新たな「始まり」を感じさせるところが退任講義「らしくない」。そして「涙」ではなく「笑い」でしめくくるところが久恒先生「らしい」。十年後には、こんな最終講義ができる人になりたいと憧れてしまいました。
なにしろ、過去について自慢はせず、失敗談ばかり話されたのです。久恒先生曰く「これから失敗の連続になる。会社に入ってもすぐ失敗する。どうしてこんなに自分は失敗するのだろうと思った。」たしかに、経理になれば振込を間違え、人事になれば50人も人を余計に採用するなど、考えられない失敗を重ねられていてビックリです。
しかし「39歳で課長になった時に失敗が役立った。あらゆる失敗をしていたので部下の失敗の理由がよくわかった」そうで、まさに失敗を重ねることこそが究極のOJT(On-The-Job Training)に思えてきます。
■写真1 ホームページに私のすべてが入っている
おそらく、久恒先生は、インターネット上に日々リアルタイムで「自分自身の人物資料館」を創り続けている「最初の人類」でしょう。しかも独自の図解のメソッドに基づくユーザーインターフェイスで体系化されています。
種々のSNSの長所を使い分けながら充実させて、すでに5,000日突破。今日の講義で参照した資料もすべてホームページに収められています。これまで作った図解、学生たちのアンケート、これまでに訪ねた人物資料館(857館)のデータはもちろんのこと、ゴルフのスコアから、母の歌集まで入っているというから驚きです。
久恒先生曰く「20年間続けてわかったこと。ホームページが空母。Facebookなどsnsは戦闘機。」たしかに、久恒先生のホームページは、SNSにジャンプするリンク集の役割も果たしながら、それら外部に寄稿した記事も、ホームページに集約されて体系的に眺めることもできるのです。
「自分で作ったビッグデータでなければ、知的生産としては使えない」という言葉も心に刺さりました。単にググってwikipediaを棒読みした情報と、自ら現場で取材し、人と出会い、調べ学んだ血肉となった知恵の集積とでは、価値が違うでしょう。
■写真2 計画が重要。毎年チェックする習慣を。
久恒先生は、計画の重要性を説き、自分の計画通りに過ごそうと提言します。自らの30年計画を振り返ると、日本航空の社員だった時代に「大学教授になる」と書いてあって不思議だそうです。こうして大きく考えると沿っているようにも見えますが、実はかなっていないことが多いとのこと。「それでも毎年チェックをして、〇×△をつけることを3年ぐらい続けていると×が〇になる。そんな良い習慣を身に着けることが大切」だと訴えます。
久恒先生曰く「計画通りにうまくいかないけれど立てないよりは、はるかに良い」「年度計画、中期計画を書いていると、そういう方向にいくような気がする。」「何が起きるかわからないけれど、若いうちに失敗しておくのが大切。ある程度力がついたら自分のテーマにまい進する。」だそうです。
■写真3 人生は豊かさ(自由の拡大)への旅である
このシンプルな人生の図解には驚きました。ちょうど昨日、クエストリーで「人生は旅」という話をしたのでシンクロニシティです。
久恒先生曰く、「カラダをベースに、カネとヒマの自由を得て、ココロ・アタマの自由を獲得する」ことが、人生という名の旅の原動力。これは転職の時にも使える考え方で、例えば久恒先生は、このたび教授を退任することで、カネ(給料)が減る代わりに、ヒマ(自由時間)を得ることで、より大きなココロ・アタマの自由を獲得できるそうです。
久恒先生が、これから書きたい本のリストを見せていただきましたが、想像を絶する労力です。それだけではなく、久恒先生が理事長をつとめるNPO法人知的生産の技術研究会の仕事として、梅棹忠夫先生の全集図解化にも挑戦したいそうです。これだけ大事業を遂行するにのは、おカネよりもヒマが、さらには人生百年時代を元気に生き抜くカラダ、ココロ、アタマが必要でしょう。
■写真4 人生100年時代には、3回のキャリアデザインを
人生100年というと、みんなコストとリスクの話ばかりしているが、そんなお金の話ばかりでは困る、考え方が間違っていると久恒先生は強調しました。それもこれも、昔の短い寿命をもとに不惑などの年齢別心得を説いた「孔子が悪い」だから、みんなが迷うとおっしゃるのです。
そこで、久恒先生は、孔子の図を1.6倍伸長して、人生100年時代の心得を図のように提唱しています。なるほど、この図に合わせるなら、青年期、壮年期、実年期で3回キャリアデザインできます。私はまだ壮年期半ばですから、まだ1,5回チャレンジできるのだと思うと、元気と勇気が湧いてきました。
少壮老死
少にして学べば、壮にして為すことあり
壮にして学べば、老いて衰えず
老にして学べば、死して朽ちず
(その他、失敗と未来に関する名言集も素敵だったのですが、ボリュームがあるので、写真を拡大して読んでみてください。)
この半年間、私の担当講義の前に、久恒先生との雑談会と「立志人物伝」を聴講できて幸せでした。学生時代に聴いておけば…と思ったこともありましたが、今日の最終講義を聴いて、いや今聴くからこそ意味があると納得しました。やはり人生100年時代の壮年期には、働きながら学び、学びながら教える、同時並行の生き方が求められるのですね。
久恒先生、今日は素晴らしい講義をありがとうございました。そしてこれからも先生の背中を見ながら、今以上に離されないように追いかけます。引き続き、ご高導のほどよろしくお願い申し上げます。
自分の場合、恩師を10人を挙げるとどうなるだろうか?
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「名言との対話」10月3日。河西昌枝「勝つためにみんなが一つの目標に向かってやった。青春時代に命懸けでやったことが、その後の人生の大きな宝物。」
河西昌枝(かさい まさえ、結婚後の姓は中村、1933年7月14日 - 2013年10月3日)は、女子バレーボール選手。享年80。
山梨県立巨摩高等学校からバレーボール選手として日紡関ヶ原、日紡足利、そして伝説の日紡貝塚へ進んだ。河西は「東洋の魔女」の主将として1962年世界選手権優勝、1964年東京五輪ではコーチ兼キャプテンとして金メダル獲得に大いに貢献した。
当時の監督・大松博文は「鬼の大松」と呼ばれるほど徹底したスパルタ式トレーニングで知られ、根性バレーで選手たちを徹底的に鍛えた。選手たちは「回転レシーブ」という武器で拾って拾って拾いまくるバレースタイルを身につけた。このときのことを、目に見えない積み重ねでいつかできるようになると、敢闘精神にあふれた河西は後に語っている。
チームメートたちは「オリンピックが終わったら婿は世話をする」という大松監督の言葉に安心して励んだ。174cmの河西はオリンピック終了後の1965年1月に日紡を退社し、5月に佐藤栄作総理の取り計らいで2歳年上の自衛官(172cm)と結婚した。大松監督の仲立ちで結婚したのは6人中4人であり、約束は守られたのである。
その後、河西はママさんバレーの指導者となった。2003年3月には日本バレーボール協会の女子強化委員長に就任し、2004年アテネ五輪では全日本女子チームの団長を務めた。2008年にはバレーボール殿堂入りを果たした。
河西のことを調べるために、『時代を創った女たち』の「中村昌枝」の章を読んだ。この本はNHK「ラジオ深夜便」のインタビューをまとめたものだ。各界で抜群の功績を挙げている女性の発言も併せて堪能した。志村ふくみ「日本人の精神の根本には色がある」、森下洋子「一日一日の積み重ねがすべて」、樋口久子「座右の銘は平常心」、山田満知子「リンクの冷たい空気は私の体の一部なんです」、今井通子「物事って、始めてしまえば思っていた以上のことができてしまうんですね」――。
「あの程度の相手なら必ず勝ちます」とは、ソ連戦で第一セットを落としたときに河西が監督に語った言葉だ。優勝には、チームの中心にこうした冷静なリーダーの存在が必要だった。東京オリンピックの女子バレー優勝決定戦は、家族全員で見た記憶がある。一喜一憂し、興奮して観戦した。
NHK「あの人に会いたい」では、「勝つためにみんなが一つの目標に向かってやった。青春時代に命懸けでやったことが、その後の人生の大きな宝物」と語っており、さわやかな印象だった。