上野:まず一人で東京都美術館ミロ」展。そして東京国立博物館「蔦屋重三郎」展を仲間と見学。

朝のヨガ教室を終えて、都心へ。

まず、東京都美術館「ミロ展」。

ピカソと並び20世紀を代表するアーチストの一人。2022年3月。渋谷:東急Bunkamuraで「ミロ展-日本を夢見て」に続き、今回の「ミロ」展は2回目。ミロは若年の頃から浮世絵や陶芸などの日本の芸術作品に刺激を受けており、生涯で二度来日している。日本への紹介は詩人の滝口修造である。溝口は1940年に世界に先駆けてミロについての単行本を刊行している。ミロはスペイン人ではなく、カタルーニャ人としてのアイデンティティーを持っていた。図録を購入。別途書く。

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東京国立博物館蔦屋重三郎 コンテンツビジネスの風雲児」展。「アクティブ・シニア倶楽部」の仲間と楽しんだ。風雨の中だったが、見学者は多い。2010年にサントリー美術館歌麿写楽の仕掛け人 その名は蔦谷重三郎」という企画展以来、「蔦重」は2度目。NHK大河ドラマの影響で注目される中、よく工夫された企画展だった。希代のメイプロデューサー・蔦重の享年は48。図録を購入。別途書く。写楽よ、余計なことを考えずに、てめえのために描くんだ、てめえのために」。 

見学後、中華料理で懇親会。
帰宅後、テレポート学校の講義を最後の30分ほど受講。

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フォトジャーナリストの吉田ルイ子さんが死去 89歳 | 毎日新聞

「名言との対話」吉田ルイ子「被写体に、どっぷりつかって、自分はメタメタになりながら、撮り続ける、私はこういう写真家になりたい」

吉田 ルイ子(よしだ ルイこ、1934年7月10日 - 2024年5月31日)は、日本写真家ジャーナリスト。享年89。

北海同室蘭市出身。小学校時にアイヌへの差別をみて、ジャーナリストになる志を持つ。慶應義塾大学法学部を卒。朝日放送のアナウンサーとなる。1961年ニフルブライト留学生としてアメリカにわたる、ボストン大学を経て、転学したコロンビア大学でジャーナリズム学科で学び、フォトジャーナリズムを専攻し、修士号を取得。

ニューヨークでハーレムを撮ったsh社員が高く評価される。1971年に帰国。1072年、『ハーレム簿暑い日々』(講談社)を刊行。

代表作『ハーレムの熱い日々』を手にした。英語で」「BLACK IS BEAUTIFULL」という副題がついている。

友人の写真を撮ってあげたら、感謝され「あなたは世界一のすばらしいアーティスです」と絶賛される。そして友人たちから「小さなピクチュアウーマン」と呼ばれるようになる。

このプロセスの中で吉田ルイ子は「見るジャーナリズム」は新しい見慮kちぇきな世界になると予想する。そして「カメラを通して私のまわりの人々の顔や生活を記録しよう、あの松やにのような黒人の匂いを撮ろう」と決心する。そしてドキュメントフィルムとフォトジャーナリズムのコースに籍を移した。

それからハーレムの奥へカメラをぶら下げて通う。ハーレムには、黒、白、黄、赤、茶など様々の肌色の人々がせかいちゅうから集っており、それぞれのアイデンティティを見出しながら生活していた。ひたすら撮り続けた者hシンは3万枚に及んだ。この中で、イエローと呼ばれる日本人のアイデンティてぃをさがしていく。赤はインディアンである。

この本の中で、本土復帰の前に訪れた沖罠にも振れている。そこでは大和人(ヤマトンチュウ)への沖縄人の不振と恐怖を感じている。

吉田ルイ子とは、JALの広報部時代に接触したことがある。写真展のために海外へ運ぶ手助けをして欲しいという要請だった。

吉田ルイ子は、アイヌ差別への義憤から始まり、アメリカにおける黒人、白人、黄色の東洋人、赤いインディアンへの差別をみつめ、帰国後は沖縄問題に目覚めていく。写真武器としてたジャーナリストとして世界を撮り続け、告発し続けた生涯であった。

吉田ルイ子1982年サンリオ映画『ロングラン』で監督を務めている。2002年には、くもん出版の教材誌「めざせ!21世紀の国際人1 国際平和をつくした日本人」に掲載された。また「九条の会」傘下の「マスコミ九条の会」呼びかけ人であり、「世田谷・九条の会」呼びかけ人もつとめた。

アメリカ滞在中に出会った尊敬するユージン・スミスは、公害にさいなまれた患者を撮り続け、公害企業と対峙し「水俣」を世界に発信したした写真家である。そのスミスを念頭に「被写体に、どっぷりつかって、自分はメタメタになりながら、撮り続ける、私はこういう写真家になりたい」と語っている。吉田ルイ子は小学校時代に抱いた志を持続し、具体的な形に落とし込みながら、89年の生涯にわたって貫いた人である。