清水の次郎長

清水、今は静岡市に組み入れられている。この街の著名人は、清水次郎長である。

次郎長翁の菩提所・梅蔭禅寺の「次郎長遺物館」を訪問。

f:id:k-hisatune:20170502055304j:imageこの遺物館には次郎長の波乱の生涯の名場面が、絵と文で描かれていて、わかりやすい。その解説と年表で次郎長の生涯を概観。

  • 米屋を営む養父・次郎八の子の長五郎から「次郎長」と呼ばれる。
  • 15歳、百両余りを持って家出。浜松の米相場で巨利を得て家人を驚かす。
  • 26歳、侠客デビューを果たした仲裁事件:甲州の紬の文吉と駿河の和田島太右衛門の庵原川での大げんかを単身仲裁。
  • 47歳、荒船山の血闘:手勢400人を引き連れ伊勢に乗り込み、安濃徳らは頭を剃って陳謝。
  • 49歳、咸臨丸事件:明治元年。清水港に幕府軍軍艦・咸臨丸の勇士の遺骸を収容。「死ねば仏だが、咎めがあれば自分一人で責任を負う」。巴川畔に「壮士の墓」。一大法要。駿府山岡鉄舟「壮士の墓」と揮毫。以後、深い交わり。駿遠三の治安維持。積年の罪科を免ぜられ帯刀を許される。
  • 55歳、富士大開墾(明治7年ー17年)
  • 57歳、英語塾を開設(川口源吉はハワイで成功)
  • 58歳、西南戦争の西郷に意見をしようと鉄舟に持ちかけ、「精神満腹」の書をもらう。
  • 61歳、静隆社設立に尽力:茶のみなと清水港の基礎を気築く。(日本一のお茶の輸出港へ)
  • 65歳、養子・天田五郎「東海遊侠伝」が出版される。
  • 67歳、船宿「末廣」を開業
  • 68歳、咸臨丸殉難者記念碑除幕式。
  • 73歳、山田長政顕彰碑建立のため、駿府城で大相撲興業
  • 74歳、死去。葬儀参列者は3000人を越える。

 

次郎長は49歳で明治維新を迎え生き方を180度転換している。晩年は美保、日本平、富士裾野の開墾をはじめ、社会公益事業にかかわる。清水の恩人である。

精神満腹会の石碑には「底光りのする人格者。清水の今日の端を開いた先覚者。鉄舟とは知音の間柄。剛者にして仁人。大俗にして聖者。信条は正義・意気。男の中の男」と書かれている。

 

「侠客次郎長の墓」。大政、小政など子分等と埋葬されている。

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 清水港船宿記念館(次郎長の船宿・末廣)。

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 田口英爾「清水次郎長伝」(みずうみ書房)を購入。田口は梅蔭寺の住職の二男。序文は路地裏の経済学者として知られる竹内宏。同級生だ。

山岡鉄舟「剣禅話」(たちばな出版)をも購入。

 

清水の印象。

静岡市と合併し政令指定都市になったときに県庁の公務員研修で静岡を訪問したことがある。清水は街並も淋しいし、人口も減っているようだ。静岡市の人口は70万を切ったというニュースも最近聞いた。次郎長商店街通り。港にはASUKAが入っていた。そのためか、観光客や外国人も歩いている。この街には次郎長と港という観光資源があるが、港は閑散としていた。梅蔭寺の人に聞くと大型船が入ると賑やかになるとのことだが、うまく使えていないようだ。タクシーの運転手も、「清水には何もない。合併していいことはなかった」と言っていた。東海大学はある。電車で10数分静岡に戻って新幹線で帰る。

 

「副学長日誌・志塾の風」170501

高野課長の車で富士宮へ。8時出発。8時30分愛川で圏央道。8時40分東名。9時15分新東名。裾野、沼津、9時半新富士インター。富士宮10時15分着。施設見学。清水へ。

 

「名言との対話」。5月1日。吉村昭「事実を主にしても、私は小説を書いている」

吉村 昭(よしむら あきら、1927年昭和2年)5月1日 - 2006年平成18年)7月31日)は、日本小説家。妻は作家の津村節子

戦史、歴史、医学、動物、地震津波を書く。入念な取材には定評がある。この人の書いた小説はずいぶん読んだ。前野良沢杉田玄白を書いた「冬の鷹」、尾崎放哉を書いた「海も暮れきる」、小村寿太郎を描いた「ポーツマスの旗」、、、、。「三陸海岸津波」「関東大震災」の二つは、3・11の後に読んでいる。「自然は、人間の想像をはるかに越えた姿をみせる」。

「小説とは、文章ですべてのストーリーをつむぐ文字の芸術。小説の一文字一文字に小説家の魂が込められている。つまり小説の名言とは小説家の言霊であり、小説家の肉体は滅びても、魂は我々の中で生き続けている証でもあるのだ!」

亡くなった2006年の新聞では「同世代で同じような経験をしていて、ひどい目にも遭っただろうけど、ついぞそういう話をしない人でした」(城山三郎)との談話が載っていた。

吉村昭の小説はスキがないが、講演ではユーモアあふれた話しぶりであるのは意外だった。講演テープを聴いて、ますますこの人のファンになった。「今日もまた 桜の中の遅刻かな」という句を大学時代に詠んで先生を感激させた逸話が津村節子のエッセイにある。厳しさと同時にやさしい目で歴史上の人物を見ていたのだろう。

18歳の昭和20年8月15日に敗戦を迎えた吉村は、「思いもかけぬことで呆然としたが、最も驚いたのは、それまで戦争を遂行と戦意高揚を唱えつづけていた新聞、ラジオ放送の論調が一変したことであった」とマスコミと軍部を痛烈に批判している。

吉村昭は丹念な取材で事実を明らかにしていくが、それはノンフィクションではなく小説であるという。事実と事実のすき間を主人公たちの想像上の名言で埋めていく、それが小説である。小説を書き遺すことで、肉体は滅びても魂は生き続ける。吉村昭の小説が読者を引き込むのは、鍛え抜かれた名言を絞り出す魂の迫力である。

 

自然は、人間の想像をはるかに越えた姿をみせる。

 

 

自然は、人間の想像をはるかに越えた姿をみせる。
自然は、人間の想像をはるかに越えた姿をみせる。