東京MXテレビの特別番組 寺島実郎の日本再生論第2弾「ポスト・コロナへの視界」。

 東京MXテレビ(9チャンネル)20時から21時までの特別番組「寺島実郎の日本再生論 第2弾」。骨太な全体知の話は感銘を与えただろう。

以下、わたしの描いた図メモからのまとめ。

  ・仏教は疫病対策でもあった。お屠蘇は悪鬼を屠り魂を蘇生させる薬酒。隅田川の花火大会は1732年に徳川吉宗が大飢饉とコレラで亡くなった人々の慰霊と悪病退散で始めたという説あり。日本もウィルスと共存、共生してきた。

・速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』の表紙はマスクとうがいだ。変わっていない。

・100年前のスペイン風邪の大流行では、世界で4000万人が死んだ。第一次世界大戦の死者は1000万人であった。日本でも内地45万人、外地(樺太、朝鮮、台湾)で29万人が死亡している。当時は疫病の知識がなかった。1930年の電子顕微鏡の発明、1995年のアメリカ陸軍によって鳥インフルエンザの変化したものと判明した。この間80年かかっている。SARSは2ヶ月で病原体を特定できた。新型コロナは1週間だった。WHO(成果保健機構)のよれば、318の抗ウィルスの研究開発が進行中で、ワクチンも開発中だ。

スペイン風邪が日本を襲ったのは、日清、日露、第一次世界大戦で一等国意識が盛り上がった時期だ。あまり記録がない。一方、新型ウイルスは後退期の日本を襲っている。時代背景が違う。

・情報メディア環境を注視すると、100年前にはラジオ’1925年)もテレビ(1953年)も無かった。現在は1990年代のインターネットによる情報爆発の時代だ。そこに大衆メディア社会の落とし穴がある、「全体知と専門知」。感染症の専門家たちは42万人の死、接触の8割減というが、それは全体知か。科学ジャーナリズムの貧困という現実がある。「日経サイエンス」の特集では、アメリカの死者6万人(日本は550人)は格差と貧困によるマイノリティの人たちが主であり、医療、貧困、社会構造の問題として提出している。メディアは「命が大事か、経済が大事か」という問題の立て方という安手の\ヒューマニズムに終始している。そして知識人たちも簡単に主張を反転させてしまう。賢いバランス感覚が大事なのだ。

・致死率・死亡率をデータでみてみよう。世界の致死率は7.11%に対し、日本はPCR陽性者のなかの死者の率は3.25%だ。最近、抗体検査の数字がでてきている。東京は5.9%となり推定すると80万人、神戸では3%。抗体を持っている人は、PCR陽性者の10倍はいることになる。そうすると致死率は0.3になるのではないか。また100万人あたりの死亡者数は、日本、中国、韓国が低いというデータもある。日本では死亡原因3位の肺炎は19万人、インフルエンザ3000ー4000人。新型コロナでは現在までで550人。こういう相対感覚が大事だ。そして今後は、バイキンマンと共存するアンパンマンの世界と同じように、ウィルスの存在を前提として対応していかねばならない。

・山内一也「ウィルス・ルネッサンス」によれば、ウィルスは新しい医療に役立っている。ガンのオボジーボはウィルスで戦うし、新世代ワクチンもウィルスの力が必要だ。唯一の答えは、ウィルスと共生しつつ、慎重に細心の注意を払って生活することだ。

・今、自分にできることは何か。私は日本医師会の会長と面談し医療の現場を支えようとタッグを組んでいる。日本総研と共同で「緊急報告」をまとめた。気がついてみれば高機能マスク、防護服、人工呼吸器などの医療を支えるインフラは、海外依存になっていた。高機能マスクは55億枚の8割は輸入だった。防護服は10月までに6900万セット、人工呼吸器は7000台が必要になる。日本の産業力で解決の行動をしよう。コンソーシアムを組んで、東電が強い防護服の国産化をすすめ輸出産業に育てることもある。防災産業こそは日本の強みにすべきだろう。

原油価格と日本経済:原油価格は一時マイナスになったが、少し持ち直して5月1日現在で18-20ドルあたりの水準にある。ウィルスによる影響で一日あたり1億バレルであった需要は3000万バレル下がるとの予測あり。OPEC+ロシア・サウイジは970万バレルの減産に合意した。アメリカの動きがカギになる。原油マネーゲームの対象となっている。価格が下がるとシェールオイルが破綻するリスクが顕在化する。それはハイイ・イールド債のリスクが上昇することを意味している。そうならないようにアメリ中央銀行は債権の購入に走り支えている。この債券は日本の金融機関が購入しているからリスクが大きい。8月までに30ドルに戻らなければ危険だ。

・日本再生には、新たな方向付けが必要だ。戦後日本は、労働力を大都市圏に集中させ、鉄鋼・エレクトロニクス・自動車などの産業力で成長してきた。彼らが住む住宅は国道16号線上に配置し、団地、マンション、ニュータウンをつくりサラリーマンのベッドタウンをつくった。ここが定年退職で高齢化している。大阪、名古屋も同じっ構造だ。東京・神奈川・埼玉・千葉の人口は3600万人で日本の3割に迫る。日本の食糧自給率は37%まで落ちた。1965年は73%あった。現在の首都圏の自給率は、東京1%、神奈川2%、埼玉10%、千葉26%に過ぎない。

・埋没する日本の進むべき道:新型ウィルスによって、テレワークなどのデジタルトランスフォーメーションの進行と、リアル経済の凄みへの覚醒が起こった。この状況下で物流、宅配などのロジスティクスクス産業でライフラインを支える人々が動いている。「デジタルとリアルの融合」、この二つをインアパイヤーさせることが重要になってきた。

・考えるべきこと:腰高になった日本に必要な産業は何か。どういうポテンシャルがあるか。現場を支えている人に注目しよう。生身の人間にとして考える。日本の産業を不安定さからとり戻す。グローバル化で失ったものをとり戻す。正気をとり戻そう。

・「高村光太郎詩集」の「火星が出てゐる」。正しい原因に生きること、それのみが浄い、、、、。いらだちの中で単純化しないことだ。筋道の通った国の針路と人間の生き方を模索していきたい。

・来週の3回目(5月16日)は、世界の中の日本の位置づけを考える。中国に詳しいカリュウアメリカに精通している渡部恒雄が登場。米中2極構造からの離脱。地頭を鍛えよう。

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読書

坊屋三郎「これはマニメな喜劇でス」(博美館出版)

・古川江里子「美濃部達吉吉野作造」(山川出版社

・「ロックフェラーラ回顧録」(新潮社)

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「名言との対話」5月10日。小野竹喬「純正を求める為に、芸道の苦しみを受けることは法悦である」

小野 竹喬(おの ちっきょう、 1889年明治22年)11月20日 - 1979年昭和54年)5月10日)は、大正・昭和期の日本画家
岡山県笠間市生まれ。14歳で京都の竹内栖鳳に入門し、後に寄宿生となる。竹喬は、生涯に於いて西洋画、南画、大和絵、簡潔な表現、墨彩画と画風を変化させていく。1903年から1938年までの前期では、1921年の渡欧で、西洋画にはない「日本画の「線」を再認識する。1921年32歳で土田遷、野長瀬挽花、黒田重太郎と渡欧し1922年に帰国する、

近代西洋絵画の理念と日本画の技法と材料の相容れないところを解決することを決意する。南画の池大雅を思慕した竹喬は西洋というフィルターを通した線描と淡彩による南画風表現に到達する。

39歳の「冬日帖」は池大雅与謝蕪村、田能村竹田の影響で、代表作の一つとなる。40歳の「山」(水墨画を基調とした南画表現)、54歳の「秋陽」、58歳の「仲秋の月」は記念的な作品。62歳の「奥入瀬の渓流」は水の表情を線で描いている。
後期は、1939年から1979年。線描と淡彩の南画風表現から、素材の美しさを活かす大和絵風へと変化する。そして純粋な日本山水画を創造しようとし、大和絵の新解釈野時代に入る。

61歳、京都市立美術専門学校教授。69歳、社団法人日展常務理事。

71歳の「彩秋」、73歳の「残照」、78歳の「池」は水面の表情がいい。79歳、文化功労者。85歳の「日本の四季」は「春の湖面」、「京の灯」、「朝靄」。「河野辺り」。「樹雪」は、墨彩画で墨絵に淡い色をつけた。「日本美の、、は墨絵にあり」。87歳では、30年の宿願であった「奥の細道句抄絵」の連作を完成する。文化勲章。89歳で死去。

1982年10月に開館し、2001年に新館が完成した小野竹喬美術館を2015年に訪問した。竹喬の人柄を思わせるような、清楚なたたずまいだ。生誕120周年記念企画で、素描50点を含む120点を観ることができた。観た中では、島根県の良港を南画風に描いた「七類」、セザンヌの影響を受けた「島二作」、志摩半島の「波切村」が印象に残った。「暑き日を海に入れたり最上川」の絵もよかった。

『「素顔の「竹喬」さん」』(小野常正。山陽新聞社)を読むと、向かいの等持院で修行中の小僧時代の水上勉が正月に遊びに招いていた。その水上は「等持院を憶うことは、小野芸術への参入だといえる」と語っている。水上が毎日に連載した『冬の光景』の題字は竹喬の絵であった。

「無心になってものをみる」「自然と私のすなおな対話」が小野竹喬の絵を描くことだ。その過程で「苦しみを通り越して生まれてくる絵が、ほんとうのような気が此の頃はして来ました」となり、ついには「純正を求める為に、芸道の苦しみを受けることは法悦である」との心境に至っている。 

素顔の「竹喬さん」

素顔の「竹喬さん」

 

 

 

『知研フォーラム』が届いたーー「憲法改正」

『知研フォーラム』が届いた。通巻347号だ。

猪俣範一さんの19ページにわたる労作「国民の・国民による・国民のための」憲法改正憲法改正問題をやさしく解説してくれている。

「国民不在の憲法改正論議」「第九条単独で憲法自衛隊合憲・違憲の判断」「自衛隊を合憲とするための解釈ー芦田修正案」「自衛隊を合憲とするための解釈ー憲法全体総合解釈」「自衛隊を合憲とするための解釈ー国際法上の解釈」「憲法改正に関する記述の曖昧さ」「総理大臣選管事項・衆議院解散権の驚くべき根拠」「現行法制でも憲法改正手続き」問題を多すぎる原稿法律下での憲法改正」「憲法改正方法の提言」「国民参加型テレビ討論による徹底した論議」。

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猪俣氏は「憲法改正方法の提言」では、6つのステップを用意している。1「法律である国会法と国民投票法の改正」(複数案を国民に提示する方式)2「憲法改正対象事項を国民投票にかける国発議」(第九条が最初の対象)3「各政党及び各グループによる改正法案の作成」4「各政党及び各グループの改正案の公示」5「国民参加のテレビ公開討論」6「国民投票」。

そしてこの提言への意見を求めている。さらに内容を充実させて、まとまった書籍にすることを期待したい。

こういう議論にはやはり図解は欠かせないと思う。私は社会人大学院で毎年、自民党憲法改正草案と現行憲法を図解で読み解き、比較し、発表し、議論するという授業をやっている。以下、参照。

 

初のオンライン授業(学部・大学院):コロナ生活、「自粛から自律、自律から自立へ」。

大学のTスタジオで初のオンライン授業、事務局と秘書の近藤さんの助けで、なんとか終わった。登録の104人のうち、103人が出席というからすごい出席率だった。

私語がない。全員の顔が見える。寝る人がない。資料がよくみえる。授業アンケートがエクセルでテキストの形ですぐに入手できる。、、、こうやって挙げていくと、オンライン授業の質はリアルの対面授業よりもむしろ上がるのではないか。

この授業の本題である「図解コミュニケーション」についての感想は、週明けにまとめることとし、以下、オンライン授業、コロナ生活、質問・意見の声をピックアップしてみる。

・オンライン授業についてーーー頑張ろうとする姿がある

「オンライン授業になっても集中して頑張っていきたい」「たまに声が聞き取れなかった」「ZOOM出の授業はトラブルがあると思うが頑張ろう」「集中力を切らさずにしっかり学びたい」「リアル授業よりもやりずらい」

・コロナ生活についてーーー自粛から自律、自律から自立へ

「時間管理の話に感動。少しうつ病になっていたが、コロナ生活をうまく勝ち抜けばもう一段成長できるという話に感動し共感した」「自分を律することができる人は自立することができる人である、この言葉に感銘」「コロナについて私たちは生き延びることを第一に考えタイムマネジメントをし自分を律することが重要だとわかった」「自律から自立へを学んだ」「計画性を持つことが重要。時間を無駄にしない」「自分の生活をどのように律するかを学んだので行動に移す」「計画と行動が大事」「自律」「タイムマネジメントの重要性に共感」

・質問・意見ーーーその通りだ。改善したい。

「ZOOMの招待状が不親切」(コミュニケーションを意識した文言にしよう)。「生徒側のマイクをミュートに」(アンケートを書いているときに1人の声が入った。そうしよう)。「ホワイトボードの字が見にくい」(アイパッドで板書することにトライしよう)。「字をもう少しきれいに書いて」「字を丁寧に」(そのとおり。丁寧に字を書くことを心がけよう)。「就職する際のコロナの影響があるだろうがどんなことを心がけたらいいか」「図を描くのは、時系列順かキーワード中心か」(次回の授業で答える予定)。

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日本地域社会研究所を訪問。

・「図解コミュニケーション全集」第一巻の編集と制作の日程を確認。

・一般社団法人ザ・コミュニティの事務局長の石和田君と意見交換。事務局費用の捻出方法、オンラインゼミ同窓会、オンライン図解塾、、、。

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品川の大学院。18時半から20時まで。

「論文基礎講座」のオンライン講義。12名の社会人院生が聴講。以下、すぐに届いた感想。

  • 本日は、論文演習有難うございました。「図解/論文」の内容で非常に有益な内容でした。今までは、メールでの文章が多く、どうしても「箇条書き」の頭しかなく、演習でも、「幸福」について書きましたが、「図解」と「文章」をいったりきたり考えながら書くことによって、自分の頭も整理できることが分かりました。実際に論文を書くことは、少し先になるかもしれませんが、明日から、ビジネス、又は、文章を読むときにしっかりと考えて身に付けたいと思います。
  •  本日のご講義、ありがとうございました。秋に受講した講義でも、図にして考えてみるようにという指導がありました。ですが、いざやってみるとどうも上手くいかず、結局諦めたという経緯がありましたので、本日のご講義をとても楽しみにしておりました。あの時どうしてできなかったのか、やっとわかった気がします。「全体と部分」「構造と関係」等、考え抜く力が足りなかったのだと思います。考えを図にすることができなければすなわち、文章にしたとしても論理性の損なわれたものになってしまうのですね。また、逆に図から文章を起こしてみるというアプローチがありましたが、良い図を書くことは、ほぼ執筆と同じ行為と感じました。ひたすら作図にフォーカスした話をはじめてお聞きし、大変勉強になりました。ありがとうございました。
  • 本講義での所感を申し上げます。日々の学びについて本の全体像を掴むにも頭の中の図をアウトプットし、要約する練習をして行こうと思います。それにより、学びを体系的に理解する助けになると感じることができました。本講義で印象的であった、文章は簡単でも頭の中のイメージは違うというのは衝撃的で大きな学びでした。現在、実務においてもニュースリリース等の文章に関わる部署に異動したばかりでしたので、即実践をしてみようと思います。私には論文のテーマがぼんやりとありますが、まずは、頭の中を図解し、整理し項目を分けてみたいと思います。ご教授くださりありがとうございました。

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「名言との対話」5月8日。中村雨紅「大きな明るい星が出ているだろう。あの下で、子どもが5、6人遊んでいる。なあ、見えるだろう。楽しそうだな。あの中に俺もいるんだよ」

村雨(なかむら うこう、1897年明治30年〉1月7日<戸籍上は2月6日> - 1972年昭和47年〉5月8日)は、詩人童謡作家である。

2009年に、八王子恩方にある「夕やけ小やけ ふれあいの里」の中村雨紅展示ホールを訪ねた。中村雨紅は、童謡「夕焼け小焼け」の作詞者である。
東京都多摩郡恩方生まれ。19歳で府立青山師範学校を卒業、21歳で童話を書き始める。24歳で野口雨情宅を訪問し、以後中村雨紅をペンネームとする。26歳で結婚。文化楽社刊「文化楽譜 あたらしい童謡」に「夕焼け小やけ」が掲載されるが、関東大震災で楽譜は灰になるが、わずか13部残った。それが歌われていった。27歳、日大高等師範部入学、29歳で卒業し、厚木高校の教師になる。33歳、春秋社「世界音楽全集」に日本の童謡集に「ねんねのお里」「夕焼け小やけ」が掲載される。以後、高校教師を続けながら、童謡の作詞にまい進する。59歳のときに、生誕地に夕焼け小焼けの碑が建つ。

教師時代に「愚感 そ乃日そ乃日」という日記が残っていた。「頭がよくって 高文や 判検事に なるばかりが 国家へ尽くす 所以でもなければ 亦 格別豪い理(ことわり)でもないのに 近頃官界へ 首をつっこまなければ 人間でない様な 思ひ違いをして居る奴が ひどく殖えたとは 驚かざるを得ぬ  面白い風潮であるが 僕はまだ 宿題になっている」。童謡を生涯のテーマとした中村雨紅の心意気を感じさせる。

お星さん、腹太鼓、ありの兵隊、田舎、十三夜の月、夜道、寒い日などの作品があるが、代表作はやはり「夕焼け 小焼け」だ。「夕焼け小焼けで日が暮れて 山のお寺の鐘がなる お手手つないで皆帰ろ、、、 子供が帰った後からは まるい大きなお月さま 小鳥が夢を見るころは 空にはきらきら金の星、、、、、」

冒頭に掲げた「あの中に俺もいるんだよ」は、ガンのため死の床についていた雨紅が、足をさすってくれていた夫人に語った臨終の言葉である。この有名な童謡は、中村雨紅自身の子ども時代をうたったものだった。日本中の人々が子ども時代にかならず歌った童謡を作詞したことで、日本人にしみじみとした心情と原風景を思い起こさせているという功績は大きい。ここまで書いてきて大成建設の「地図の残る仕事」というすばらしいCMを思い出した。出世が一番という風潮に批判的だった雨紅の仕事は、日本人の心の中に残る仕事であり、永遠に歌いつづけられるであろう。こういう人生も素晴らしい。

明日からのリモート授業の準備。

リモート授業の授業準備に追われる。

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今日の収穫(日経新聞・「致知」)

「人間は立ち止まると退化します」原普(青山学院大学陸上部監督)

「関与なくして防御なし」前田匡史(国際協力銀行総裁)

「徹底した現場主義」内藤佐和子(徳島市長)

「現地で現物を見ることに尽きます」安部賛(アドマテックス社長)

「Just do it」「天、共にあり」中村哲(医師)

「ひげをきちんと剃る人のほうが強かった」C・W・ニコル

「ぶるではなく。らしく」一龍齋貞水

「医学とはサイエンス(科学)の上に成り立っているアート(芸術)である」日野原重明

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「名言との対話」5月7日。並河万里「後世にどう伝えるべきか」

並河 萬里(なみかわ ばんり、1931年10月29日 - 2006年5月7日)は、日本写真家

 東京出身。第二次大戦中、疎開島根県松江市に住む。 明星学園高等部卒。日本大学芸術学部写真学科を卒業後、ラジオ東京(現東京放送(TBS))勤務ののちフリーとなり、アジア中近東シルクロード世界的文化遺産の写真を撮りつづけた世界的写真家である。代表作に写真集シルクロード』などがある。

万里の父・並河亮はNHKなどを経て日大芸術学部玉川大学の講師もつとめた,人で、ユネスコアジア文化センター評議員などをつとめた文学博士だ。その並河亮が文章を書き、息子の並河万里が写真という親子の合作本という珍しいを読んだ。『仏像のながい旅路』(玉川選書)がそれだ。父77歳、息子47歳のときの出版だ。著者紹介では住所は同じになっていた。

釈迦が亡くなって3世紀以上経って今のパキスタンガンダーラで、釈迦は「何をして、いかに生きたか」を仏伝図に彫り、初めて仏像が誕生した。その影響でインドでは礼拝のための仏陀を制作する。仏教が東方に伝播するにつれ、それぞれの土地からの刺激を受けてさまざまな仏像が創造されていく。日本では552年に仏像の第一号が百済から入る。浄土思想の影響で、音をきき分ける、観察力の優れた観音菩薩薬師如来地蔵菩薩に人気があった。中国では8等身であった仏像は日本では6等身となり、座像が多くなる。この本の題名のとおり、仏像はながい旅路を経て、日本に安住の地を見出したのである。

万里は膨大な写真を撮り続けたのだが、その優れた成果は数々の受賞、受章にみることができる。1966年 フランクフルト写真集団特別賞受賞、1967年 スペイン写真文化賞受賞。1968年 グワダラハラ市文化功労賞受。1969年 スペイン騎士十字章受章。1970年 メキシコ合衆国名誉勲章受勲 。1972年 イラン王室文化章受章。1973年 トルコ共和国文化功労章受章。1974年 トルコ共和国科学文化賞受賞。日本でも日本写真協会第21回年度賞受賞や毎日芸術賞を受賞している。

文明と歴史の偉大さに圧倒され、強い感動を覚えた万里は、戦争や災害、観光地化など、様々の破壊から生き残ってきたこういった文化遺産を「後世にどう伝えるべきか」と、自問自答しながら、半世紀にわたり、名前のとおり万里をこえて世界40ヶ国でシャッターを切り続けた。文化遺産とは、人類は何をして、いかに生きてきたかを、後世に伝える人類共通の財産だろう。その使命感がエネルギーとなって、写真という形で人類の文化遺産を後世に残したのだ。そして、その作品自体が、並河万里が「何をし、いかに生きたか」を説明してくれる。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アフター・コロナ

梅棹忠夫著作集。日本研究=第7巻「日本研究」(日本文明論)+第19巻「日本文化研究」(日本文化論)。次はこの二つを料理する。

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次の企画は、「読書論」と「人生論」。

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「366名言集」:命日編。誕生日編。平成編。平成編2。戦後編。その次は、現代編。明治大正編。明治大正編2。近代編。近現代編。全10巻とすると、3660人か。

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・秘書とZOOMミーティング:リモート授業のシミュレーション。

・授業準備

・「全集」支援者のFBコミュニティを設置。ゆっくり進めよう。

・就職未来フェスのZOOMミーティング開催。石和田君を紹介。

・ヨガ1本

ウオーキング。Cocosで読書。

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「名言との対話」5月6日。佐藤春夫仕事は何をしてもよい。丈夫ですなおなよく働く子になってくれ。人に迷惑をかけない人になってくれ」

佐藤 春夫(さとう はるお、1892年明治25年)4月9日 - 1964年昭和39年)5月6日)は、近代日本詩人作家

医師である父・豊太郎は文芸にも造詣が深かった。故郷の和歌山県新宮には西村伊作ら先進的な文化人が活発に活動していた。 春夫は文学少年として成長し12歳で文学者になることを決意する。 1910年上京し、生田長江に指導を受ける。また、与謝野鉄幹の新詩社に入り、師事する。その縁で終生の友となった堀口大學と知り合い、一緒に慶應義塾大学予科文学部に入り、永井荷風に学ぶ。
雑誌「三田文学」「スバル」などに詩歌を発表、また「西班牙犬の家」を発表して才能が注目される。1918年、 谷崎潤一郎の推挙により文壇に登場。以来『田園の憂鬱』『お絹とその兄弟』『美しき町』などの作品を次々に発表。 芥川龍之介と並んで時代を担う2大作家と目される。
著作は多様多彩で、詩歌(創作・翻訳)、小説、紀行文、戯曲、評伝、自伝、研究、随筆、評論、童話、民話取材のもの、外国児童文学翻訳・翻案などあらゆるジャンルにわたった。また、西村伊作の創設した文化学院の文学部長を10年近くつとめたこともあり、門弟三千人といわれた。 中村真一郎は「一生をその才の可能性の可能の限りの探求に注ぎつくして悔いなかった。見事な才人の一生である」と述懐している。その仕事は、『自選佐藤春夫全集』(河出書房全10巻、『佐藤春夫全集』(改造社)全3巻、『佐藤春夫全集』(講談社)全12巻にまとめられている。

佐藤春夫には、初恋の大前俊子、青鞜社の妹尾竹ふくみ、女優の川路歌子などとの恋愛があるが、極め付きは谷崎潤一郎夫人千代との恋愛事件だ。三角関係の愛憎のなかで1921年に処女詩集『殉情(じゅんじょう)詩集』をまとめ、有名な『秋刀魚(さんま)の歌を執筆する。「あはれ/秋風よ/情(こころ)あらば伝へてよ/―男ありて/今日の夕餉(ゆうげ)に ひとり/さんまを食(くらひ)て/思ひにふける と」。10年後には千代と結婚する。谷崎とは絶交した。これは「夫人譲渡事件」として世間を騒がせた。

佐藤春夫は1960年に68歳で文化勲章を受賞している。同時受章は、数学者の岡潔最高裁長官の田中耕太郎、小説家の吉川英治だった。親友の堀口大學の受章は、それから20年近く後になり、87歳だったから、佐藤の活躍は推して知るべしだ。

佐藤春夫NHKアーカイブス「あの人に会いたい」では、「詩想を得るにはのんびりした気持ちでなくちゃいかん。いい文学が生まれるために時代が良くなければならん」と語っていた。元禄時代にいい文学が出ているのも時代がよかったのだという。佐藤の生きた時代は、日清、日露、日中、大東亜戦争と続く戦争の時代だった。平和な時代だったら、さらにいい仕事をしたのかもしれない。

佐藤春夫は、亡くなるる1ヶ月前の作家が参集した誕生祝いの会「春の日の会」では、「百歳まで生きる積りです」と挨拶をしていたのだが、 1964年、自宅でのラジオ録音中、心筋梗塞のため72歳で突然世を去った。亡葬儀委員長は55年の友情を築いた堀口大學である。夫婦には金婚式があるから友情にも金友式があってもいいといわれていたが、これは実現しなかった。東京小石川にあった自宅は和歌山県新宮市の移設され、佐藤春夫記念館になっている。

佐藤春夫の言葉の中では、「親が子におくることば」という詩が印象深い。全文は「大臣にも大将にも金持ちにもならなくてもよい。仕事は何をしてもよい。丈夫ですなおなよく働く子になってくれ。人に迷惑をかけない人になってくれ。お前ひとりではない。日本中の子どもが、みなそうなってほしい。どの親も、どの先生も決してこれより他に望むまい。もし万一他の注文がでたら、あなたは、はっきりおことわりしなさい」。これはどの親も望むことだろう。

佐藤春夫 (新潮日本文学アルバム)

佐藤春夫 (新潮日本文学アルバム)

  • 発売日: 1997/09/01
  • メディア: 単行本
 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

「後ろ姿探検隊」(インスタグラム)ーー私の視線。何を見たか。自分史。

「後ろ姿探検隊」というテーマで2019年1月から写真を撮って、インスタグラムにアップするという習慣がついている。もう200枚以上はたまっている。人間の後姿は実に面白い。最近の作品をならべてみた。公園における親子、夫婦、家族、友人、、。そこには私の視線がある。何を見たか、それは自分史でもある。

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授業準備

ヨガ1本

読書『東京都知事列伝』。

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「名言との対話」5月5日。吉岡隆徳「死ぬまで記録を追って、後輩に記録を残したい」

吉岡 隆徳(よしおか たかよし、1909年明治42年)6月2日 - 1984年昭和59年)5月5日)は、昭和初期に活躍した陸上短距離選手

 吉岡は、1932年のロサンゼルスオリンピック100メートル決勝で6位入賞したファイナリストだ。その後10秒3の世界記録を3回出している。この日本記録は29年間破られる事はなかった。日本人として初めての陸上の入賞者であり、また世界記録樹立者である。

その快走は「暁の超特急」と呼ばれた。これを考えたのは川本信正という読売新聞運動部の記者である。川本はオリンピックを5つの輪からの連想で、五輪と訳した。宮本武蔵の『五輪書』の影響もあったそうだ。日本人とアスリートに馴染む名訳である。

ロサンゼルスオリンピックで優勝したアメリカ人は「ミッドナイトエクスプレス」と呼ばれていた。深夜の超特急である。これにちなんでスタートダッシュが素晴らしかった吉岡を「暁の超特急」と命名したのである。ここにも知られざるエピソードがある。 

身長165センチと当時でも小柄であった吉岡は前半で勝負を決めようと考える。50メートルまでが勝負だと、スタートダッシュに集中をした。スタートのやり方、走行フォーム、足の回転を速くする方法などを必死に研究し、カンと動作を鍛え、ピストルがなると同時に飛び出すことができる「ロケットスタート」をものにした。

NHKの「第9回極東選手権競技大会」の映像をみたが、初めから圧倒的なスタートで、ぶっちぎりの優勝をかざっている。吉岡はベルリンでは、2次予選で敗退。3度目の東京は、大会そのものが流れてしまう。引退した吉岡は1941年には広島高等師範学校教授に就任。戦後は広島県教育委員会保健体育課長を務めた。1952年にはプロ野球・広島カープの初代トレーナーとなっている。

55歳でリッカーミシン陸上部監督に就任し、100メートルで10秒1を出して29年ぶりに吉岡の記録を抜いた飯島秀雄依田郁子らを育てた。飯島は有名な選手だったが、オリンピックではは惜しくも準決勝で敗退している。自らの記録は破られてほしくないはずだが、吉岡は本当にそれを残念と感じていた。

この人の特色はもう一つある。「100メートルは私の一生の友です。歳をとったからといってこの友と別れることはできない」として、年齢別のマスターズ大会で100メートルの記録に挑戦し続けたことだ。NHK「あの人に会いたい」では、「死ぬまで記録を追って、後輩に記録を残したい」と語っている。その吉岡は、70歳では15秒1を出している。まさに、100メートルに命を捧げた生涯といっていいだろう。「昭和史を語る会」を主宰している保坂正康は『100メートルに命を賭けた男たち』(朝日新聞社)で吉岡を取り上げている。この本を読んで吉岡に関するこの記述を充実させたい。

『わが人生一直線』(日本経済新聞社)という自伝もあるように、現役時代、コーチ時代、そしてマスターズ時代と、まさに100メートルに生涯を賭けた人である。

 

 

 

ラジオ「NHK聞き逃し配信」とテレビ「NHKBS1」「BSプレミアム」

NHkラジオ「聞き逃し配信」を聴きながら、ウオーキングを1時間半。

NHKラジオアーカイブス「声でつづる昭和人物史」。保坂正康さんの解説。

森繁久彌1・2「子供時代からNHKアナウンサー時代まで」。人の3倍働こう。

http://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2017/05/04/000000

http://k-hisatune.hatenablog.com/entry/20091130

http://k-hisatune.hatenablog.com/entry/20091201

古関裕而1・2「子供時代から東京オリンピックマーチの作曲まで」。旅と音楽。

http://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2017/08/11/000000

http://k-hisatune.hatenablog.com/entry/20050501/1114873200

「著者からの手紙」北方謙三の「生きるための読書」。10年の雌伏生活。

高橋源一郎飛ぶ教室」の漫画編の前編。

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ヨガ2本

読書:松浦明「田中館愛橘ものがたりーーひ孫が語る「日本物理学の祖」」を読了。

授業準備:秘書とZOOMでの打ち合わせ。マニュアルを読む。

メルマガ1230号を発信

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テレビBSプレミアム

・16時「100分de名著」の「松本清張」。「神々の乱心」。

・17時45分「まいにち養老先生」:鎌倉生活。

テレビBS1

・18時「独占告白・渡辺恒雄ー戦後政治はこうして作られた」。渡辺恒雄(94歳)と中曽根康弘(101歳で死去)との関係。どちらも偉い。

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ユーチューブ:「人生の歩き方 見城徹尾崎豊」1・2。凄まじい人間関。

20時からのZOOMミーティングを忘却。

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「名言との対話」4月4日。ヨシップ・ブロズ・チトー「ユーゴスラビアはひとつであり、民族主義的な思想は許さない」

ヨシップ・ブロズ・チトー1892年5月7日 - 1980年5月4日)は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国大統領。

チトーは1953年から1980年の死去にいたるまで四半世紀以上もユーゴスラビアの大統領の地位にあった。「ヨーロッパの火薬庫」といわれたバルカン半島ユーゴスラビアを一つにまとめあげた辣腕の政治指導者である。チトーは、「お前はあっちへ行け」という意味の偽名である。

チトーは市場を重視した社会主義、労働者の自主管理を標榜する社会主義政策をとった。ソ連の衛星国になることを拒否し、米ソ冷戦時には、どちらの陣営にもくみさず、第三世界を束ねた陣営を指導した。国内のやっかいな民族問題については、各民族の自治権を拡大することで紛争を避けることに成功した。また言論の自由も保証し、チトー批判もある程度許していた。長い間、ユーゴスラビアは世界政治の中で一定の存在感があったことは私の記憶にもある。

独自の社会主義路線を歩むチトーに対し、ソ連スターリンから放たれた刺客を処断し、「こっちからモスクワ刺客を送るぞ」と恫喝し、スターンを沈黙させている。

 1980年のチトーの葬儀は国葬となり、東側諸国と西側諸国を問わず数多くの国の首脳たちが集まり、世界最大規模の葬儀となったことで、その影響力がわかる。1989年の日本の昭和天皇の「大喪の礼」はその規模をうわまわった。

カリスマ指導者であったチトーの没後には、引き継ぐ指導者はなく、ユーゴスラビアは、スロベニアクロアチアマケドニアボスニア・ヘルツェコビナ、モンテネグロ、セリビア、そして承認する国がまだ少ないコソボの7ヵ国に分裂してしまった。

90年代には、セルビア自治州のコソボで人口の9割以上を占めるアルバニア系住民の独立運動が勃発した。ギリシャ正教の流れをくむ正教徒のセルビアに対し、アルバニアイスラム教徒が大半をしめており、宗教戦争の様相をしめした。セルビアによる民族浄化など世界を震撼させた。1999年に紛争は終結したが、火種はまだくすぶっている。

ユーゴスラビアはひとつであり、民族主義的な思想は許さない」として、「差別や貧富の差の無い世界」を目指し、この難しい地域を四半世紀以上もまとめ、維持したチトーの功績はきわめて大きいものがあった。

21世紀に入って、宗教を背景とした民族問題が浮上してきた。「中華民族」という概念で束ねようとしている中国など多民族国家におけるセンシティブな少数民族問題、中東地域におけるさまざまな民族紛争、、、。言語、宗教、生活習慣、価値観など文化が異なり、自己主張を始めた民族同士の融和は難しい。もはやイデオロギーで束ねることもできない。しばらくはこの状態がつづくだろう。はたしてこの民族紛争という難問を人類は解くことができるだろうか。