『知研フォーラム』が届いた。通巻347号だ。
猪俣範一さんの19ページにわたる労作「国民の・国民による・国民のための」憲法改正は憲法改正問題をやさしく解説してくれている。
「国民不在の憲法改正論議」「第九条単独で憲法の自衛隊合憲・違憲の判断」「自衛隊を合憲とするための解釈ー芦田修正案」「自衛隊を合憲とするための解釈ー憲法全体総合解釈」「自衛隊を合憲とするための解釈ー国際法上の解釈」「憲法改正に関する記述の曖昧さ」「総理大臣選管事項・衆議院解散権の驚くべき根拠」「現行法制でも憲法改正手続き」問題を多すぎる原稿法律下での憲法改正」「憲法改正方法の提言」「国民参加型テレビ討論による徹底した論議」。
猪俣氏は「憲法改正方法の提言」では、6つのステップを用意している。1「法律である国会法と国民投票法の改正」(複数案を国民に提示する方式)2「憲法改正対象事項を国民投票にかける国発議」(第九条が最初の対象)3「各政党及び各グループによる改正法案の作成」4「各政党及び各グループの改正案の公示」5「国民参加のテレビ公開討論」6「国民投票」。
そしてこの提言への意見を求めている。さらに内容を充実させて、まとまった書籍にすることを期待したい。
こういう議論にはやはり図解は欠かせないと思う。私は社会人大学院で毎年、自民党の憲法改正草案と現行憲法を図解で読み解き、比較し、発表し、議論するという授業をやっている。以下、参照。
- 大学院授業:本日のテーマは「憲法」。現行憲法と自民党草案。http://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2017/05/12/000000
ーーーーーーーーーーーーーーー
「名言との対話」5月9日。坂田久五郎「万年筆というものを生まれて初めて見た時のときめきは言葉で言い表せないほどだった」
坂田久五郎(1883年(明治16年)1月5日ー1961年(昭和36年)5月9日)は、実業家。セーラー万年筆の創業者。
1897年(明治30年)14歳広島県呉市に出て、兄・斉次郎の金属文具工場を手伝い始める。1904年、21歳で日露戦争に従軍、戦功により金鵄勲章を受章。1905年22歳のとき友人の将校から英国留学土産に万年筆をもらい、心ときめかせる 。1911年、28歳呉市稲荷町にセーラー万年筆の前身・阪田製作所を創業。日本初の14金ペンの製造に着手。1917年、34歳で呉市浜田町に工場を新設、万年筆の完成品製造開始。1926年、43歳のとき天皇陛下(当時 摂政宮)民間産業奨励のため、浜田町工場をご訪問される。1932年、49歳で万年筆製造部を株式会社組織とし、社名を「セーラー万年筆阪田製作所」とする。専務取締役に就任。1939年、56歳、広島県安芸郡大屋村(現・広島県呉市天応町)に天応工場新設。1940年、57歳取締役社長を退き、取締役会長に就任。1955年、、72歳産業振興に尽くした功績により、藍綬褒章を受章。1961年、5月9日逝去(満79歳)正六位、勲五等、雙光旭日章を授与される
セーラー万円筆は2011年には創立100周年を迎えている。近年、継続して最終赤字を計上していたが、2016年度に3年間の中期計画を策定し、主力の文具事業・ロボット事業に経営資源を集中。不採算事業の廃止を進め、経営基盤の強化を行った。2019年末現在では、 資本金36億5,357万円。売上高53億2,590万円(2019年12月期/連結)。従業員378名(嘱託・パート従業員含む)という姿になっている。
1961年の創立50周年に阪田久五郎は「星霜五十年」と題した寄稿文を書いており、 22歳での立志の瞬間を本人の口から聞くことができる。「 友人、白髪長三郎君が土産に持って帰って見せてくれた、万年筆というものを生まれて初めてみた時の心のときめき。之を自分の手で造ろうと決意して、旋盤を手で廻していたような幼稚な時代に苦心惨胆した創業当時…呉軍港にちなみ、又、島国日本は海を越えて発展せなければと、セーラー万年筆と命名し、小さな工場で苦心して造った万年筆を信玄袋に入れて売りに行き、思うように売れなかった時の苦しさ」。
服飾ジャーナリストであり万年筆愛好家・飯野高広による、国産3万年筆メーカー比較サイトによれば、パイロット万年筆は「隙のない抜群の安定感」、プラチナ万年筆は「手堅く、しかもアグレッシブ」、そしてセーラー万年筆については「広島出身らしい「熱さ」を感じる」と評価している。創業者の熱を感じさせるというのは最大限の誉め言葉だろう。私も文房具が好きで、特に万年筆についてはモンブランなど外国製品も含めて使ってみているが、セーラーは書きやすい印象を持っている。
言葉で言い表せないほどだった心のときめきの瞬間、そして自分の手で万年筆を造ろうと決意した瞬間。まさに立志の瞬間である。その後は、創業者が誰でもとおる道であるが、苦心惨憺ながら山道を登っていく。立志の瞬間の熱さが、100年以上の歳月を経ても残っているという評価は創業者への最高の評価だろう。