「何でもみてやろう」「ベ平連」の小田実(オダマコト)さんの思い出

小田実が亡くなった。1932年生まれだから、まだ70代半ばだった。


世界を貧乏旅行して好奇心の赴くまま見て歩いた「何でも見てやろう」(1961年。29歳の時の出版。河出書房新社)という本が大ベストセラーになって、大学生のときに興奮して読んだ記憶がある。「たしかにアメリカ合州国から始まって世界大にひろがった旅は、私の思考、人生に大きく風穴をあけた。そこから風は激しく入って来て、余分なものを吹き飛ばした。私はそれを書いた。」と小田が述懐するこの本は若者の世界への目を開いた歴史的な本だった。


この人物とは何度か接点があったので、以下記してみたい。

小田実は1960年代後半から1970年代前半にかけて活発に活動していた「ベ平連」(「ベトナムに平和を!市民連合」)を創るなど政治活動に多くの影響を与えた。大学時代にはこの人の発言に注目していた。


就職後、20代の後半にロンドンで仕事をしていたが、そのとき、小田実が近くを通った。事務所にいると、中東地区を担当する偉い人(この人は豪放な人として有名だった)が「オメエ、小田まことって知っているか?」と聞くので、「それは有名な人ですよ」と答えたら、「そうか。オレは小田実(小田みのる)なら知っているが、小田マコトなんてしらないと答えたが違っていたかなあ」といって笑ったので、私もおかしくなったことを思い出す。


その後、日本に帰り30歳頃から知的生産の技術研究会(知研)に参加した。このとき「激論!ニッポンの教育」(講談社)という本の編集の手伝いで旧・吉川英二邸を訪れたことがある。ここで有識者の座談会を行い、それを編集して本にするという企画だった。私がその場所に入ると、誰かがソファに寝そべっていた。起き上がるそぶりもないその人に挨拶をするとそれは著名な学者の小室直樹だった。その後、朝日新聞の原田先生と毎日新聞の黒羽先生がみえ、文部次官経験者、そして小田実が現れた。いったいどんな座談会になるのかと思っていたのだが、始まってみると当時の教育の主流である次官経験者と舌鋒鋭くそれを批判する小田実の一騎打ちの様相を帯びてきた。小田実は体が大きく骨太な骨格を持った偉丈夫だが、相手の理論を真上から粉砕しようとする迫力があった。後で講談社の編集者に聞くと「小室直樹も毒気が強いが、小田実は毒の強さが上だからね」という返事だった。


ビジネスマン生活のかたわら知研での活動に精を出したのだが、東京でも小田実を呼んで話をしてもらったことがある。このときのことはよく覚えていないが、八木哲郎さんがそのときのことを記している。