「岸信介の回想」(文芸春秋社)

岸信介の回想」(岸信介・矢次一夫・伊藤隆文芸春秋刊)を読了。
82歳で引退の後、1981年86歳のときのインタビュー。前年は大平首相死去で自民党が勝利し鈴木善幸内閣が成立の頃。

岸信介の回想 (1981年)

岸信介の回想 (1981年)

「昭和の妖怪」と呼ばれた岸信介総理大臣(1986年生れ)は、日米安保の改定を行ったことが最大の業績として知っている。5つ下の弟は佐藤栄作総理だ。
このインタビュー本は、昭和史の貴重な証言に満ちている。
岸は長州佐藤家の次男であった。祖父は幕末の吉田松陰らの志士たちと交遊があり、維新後は島根県令をつとめた、。義理の叔父は松岡洋介である。岸の長女・洋子は阿部晋太郎と結婚する。その息子が安倍晋三総理だ。

若い時代の秀才ぶり、満州での活躍、戦前の商工大臣としての活躍、戦争直後の3年に及ぶ巣鴨での戦犯としての獄中生活、保守合同と鳩山政権下の幹事長時代、政権獲得、日中・日韓問題、国論を二分した60年安保での心境、師友とライバルたちの思い出などが詰まっている。
ここでは、総理辞職以後の心境と雌伏期の獄中生活での心境の二つを追うことにしたい。

岸信介は東京帝大の1年生の時、後に民法の大権威となる我妻栄と同点で独法のトップであった。また、大学2年の時には高等文官試験をパスしており、卒業時には上杉慎吉教授から憲法講座の後継者として大学に残ることを懇請されている。それほどの秀才だった。

満州国で活躍し、東条内閣の商工大臣であった岸は戦犯容疑で最初は横浜の監獄に入る。そして巣鴨に移った。
世捨て人になることをやめ、もう一度日本の政治を立て直すことに生涯をかけようと決心する。5時半起床、8時半就寝の生活で、弱かった胃腸も丈夫になった。

  • 獄中三楽、読書、静思、家書。
  • 輿論に阿諛すべからず。輿論に聴従せざるべからず。これ政治の要諦なり。
  • 天大任を其の人下さんとするや、まづ其の人を苦しむ。
  • 予は郷土を愛す。郷土の血を愛し、郷土の土を愛す。
  • 人が孤独に於いて、無為に閑居して退屈を感ずるといふには、其の人に思想がないからである。独りを楽しむだけの人間的内容がないからである。
  • 個人が自己尊敬の念を失ったときは自暴自棄であり、道徳上向上はあり得ない。

岸は歌も詠む。うまいとは思わないが、心情は理解できる。
「4年前妻娘と共に茸狩りし宇山の茸は今出づらんか」「歌詠みて寄越せ吾娘よ父は今朝な夕なに万葉を読む」「中庭に君等を見るは今日限り幸くあれかし晴れて会はまく」「なつかしき友のたよりなど聞きてあれば話は尽きぬにときは過ぎにけり」弟の世に立つ道を塞ぐこの兄の思ひを誰か知らめやも」「弟も身をいとほしみ秋の日をひとやに独りなげきゐるかも」「罪もなき人を裁きて死の刑ときめたる無法神はゆるさじ」

  • 東京判決は其の理由に於て事実を曲げた一方的偏見に終始してゐるばかりでなく、各個人に対する刑の量定に於ても極めて杜撰で乱暴極まるものと言はざるを得ない。
  • パール判事及び印度政府に吾々は満腔の謝意を表すと共に其の正義観を称賛せねばならぬ。、、一部しか他の各新聞が載せてゐないことである。之れは各新聞社の卑屈かつ非国民的意図に出づるものである。之等の腰抜共は宜しくパール判事の前に慚死すべきである。

総理辞職以後。慧眼に感心した。

  • 二大政党が望ましい。、、一度自民党が野に下る必要がある、野党になる必要があると思うんだが。そのためにも小選挙区制で二大政党を育成すべきだという意見なんですがね。
  • 日韓、日華あたりでは、民間でも有力な人が言いたいことを本当にそのまま言い得るような場を持つことが意味があると思うんですよ。
  • 憲法改正は近い時期に可能性があるものではないですよね)という問いに対して、わからないよ。世界情勢がどういう風に変わるかによってね。
  • 一番の趣味といえば書をたしなむこと。、、やっぱり書ですよ。