戦後70年よみがえる日本の姿--オーストラリア戦争記念館所属写真展

メディアでは「戦後70年」特集が盛んだ。
九段下の昭和館で「戦後70年 よみがえる日本の姿--オーストラリア戦争記念館所属写真展」が開催中で、インターゼミの前に観て来た。

敗戦後、連合軍の占領があったが、その実質はアメリカ軍によるものという印象が強かったが、英連邦軍もこの占領に関与していたことを知った。確かに連合軍だから当然だ。
連邦軍は英国やオーストラリアを中心として組織されていた。オーストラリア軍は、広島の呉と東京に進駐しており、その時の写真が多く撮影された。それは首都キャンベラのオーストラリア戦争記念館に保管されている。
当時の国内の街並み、光景だけでなく、英連邦基地内における日本人と兵士との交流の様子が多いのが特徴だ。その100点の写真をみた。

アメリカ進駐軍は日本人に親しまれうのを好んだが、英連邦軍は、日本人が威厳と尊敬のまなざしで見てくれることを希望するフラニゼーション・ポリシーを徹底していた。連合軍の中でもポリシーは異なっていたのだ。
しかししだいに広く深い交流が行われていく。

呉市でこの基地で働く日本人は進駐当時は3000人だったが、次第に増えていく。1951年3月には広島県で7978名、7月には2万2千人を超え、12月には4万名を超えた。英連邦軍は資金面で苦慮しするが、失業問題でなかなか削減に踏み込めなかった。

連邦軍は1956年に全面撤退するというニュースを発表、それは呉市にとって大きな衝撃だった。
呉市には戦前・戦中は海軍があり市最大の職場提供者だった。
1953年段階でも英連邦軍基地で働く日本人は1万人以上おり、市民所得75億円の4割の32億円はこの駐留によってもたらされていたのである。

こういった経済的事情は現在の米軍基地と地域との関係と同じだ。75%の基地が集中する沖縄の問題も簡単ではないことがわかる。

                                                • -

名言の暦 4月18日。

没。

  • ダーウィン:私は、できるだけ一生懸命に、できるだけよくやったのだ。誰もこれ以上にはできない。
  • 葛飾北斎:天が私にあと10年の時を、いや5年の命を与えてくれるなら、本当の絵描きになってみせるものを。
  • 山本五十六1943年
    • やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。 やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。
  • アインシュタイン1955年
    • 教える能力というものはおもしろく教えることである。
    • 賞賛による堕落から逃れる方法はただひとつ。仕事を続けることである。
    • ただの思いつきでできるようなものは、世の中には断じてない。
  • 朝倉文夫1964年:私は、誰々曰く式の話がきらいで、総ては体験に依る話をする主義です。
  • 三岸節子:絵を描くことは、長く遠く果てしない孤独との戦いである。
  • 木村政彦1993年:人の二倍努力する者は必ずどこかにいる。三倍努力すれば少しは安心できるというもんだ。
  • 高橋荒太郎2003年:会社を訪問したらトイレを見る。トイレが汚かったら、取引はしない。

誕。

  • 五島慶太1882年:ものごとはすべて大きく考えること。おじけづいていては成功しない。
  • 犬養智子1931年:おいしい関係を持っている男女というのは、いつも毒の匂いというか、危険な匂いがする人だと思うの。安全パイではおいしいはずないんだから