ブログ連続5555日目。「没後50年 獅子文六展」(神奈川近代文学館)ーー「昭和の漱石」になれたか?

「没後50年 獅子文六展」(神奈川近代文学館)。

 獅子 文六(しし ぶんろく、1893年明治26年)7月1日 - 1969年昭和44年)12月13日)は、日本小説家演出家。本名は岩田豊雄

1922年フランスへ私費留学し演劇を研究。見た部隊の感想や舞台装置などを克明にメモした。1925年帰国後は劇作家として活躍。1937年には久保田万太郎岸田國士と劇団「文学座」を創設。その前後から「獅子文六」の筆名で最初の新聞小説悦ちゃん」、妻の実家の愛媛県での疎開体験を記したノートをもとにした「てんやわんや」、戦後の世相を描いた「自由学校」、妻シヅ子に捧げた自伝的小説「娘と私」、父への思慕と息子への愛情をつづり70歳で書いた自伝的小説「父の乳」など、ユーモアとエスプリに満ちた健全で明朗な家庭小説を書いて人気を博した。 作品の多くは映画化された。

f:id:k-hisatune:20191214220518j:image

獅子文六の父は、豊前中津藩の武士、福沢の慶應義塾で学んだ後に、アメリカ留学。横浜で絹織物の貿易商として活躍した。獅子文六はよく中津に帰っている。獅子(「四四)は、文豪(五)より偉い文六という意味で獅子文六というペンネームを使った。

洋行帰りのときには「半洋半和半老半通の人間」として帰国する。この時、マリーというフランス人の妻を連れていた。

獅子は昭和の夏目漱石を目指した。漱石の「坊ちゃん」や「吾輩は猫である」を凌駕するユーモア作品を書いて見せる、その決意は「坊ちゃん」の女性版の「信子」という作品に結実する。

獅子の描いた小説の主人公は「時代」であった。たとえば、敗戦日本という主人公、、。登場人物は人形なのだ。事前に綿密な現場取材と調査を行い、構想、骨格を吟味した上で、人物設定や人間関係、年表などを作成するなど細部をおろそかにしない。最後の一行まで頭に入れてから、ユーモアとウイットを意識して時代を書き始める。

 千駄ヶ谷時代の日常が『評伝 獅子文六』に紹介されている。朝は軽めにトースト。午前中は執筆。昼ご飯を3杯半。神宮外苑を1時間散歩。また「鮎と蕎麦啖ふてわが老養はむ」との句を詠んだ食通(グルマン)であり、偉大な胃袋を持った健啖家だった。

3度の結婚を経験している。最初のフランス人のマリーとは死別。1934年にシヅ子と結婚するが、1950年大磯の新居完成を前に急逝。翌年、18歳年下の松方幸子と結婚し、同年60歳で長男が誕生。晴天の霹靂だった。

60代半ばを過ぎても驚異的な筆力で大作を仕上げていった。「大型の人物の大型な運命を描きたい」として伝記を多く書いた。最晩年には3つの作品を予定していた。益田太郎冠者。最初の妻・マリー。戦時中に箱根に滞在したドイツ兵。いずれも構想だけで終わってしまった。77歳の喜寿で1969年に文化勲章を受章、わずか1か月後に急逝している。

没後50年の令和元年2019年に、ちくま文庫14冊、朝日文庫3冊、従来からの中公文庫、河出文庫も改版、増刷している。新しい読者がついており、ひそかなブームが始まっている。獅子文六は「昭和の漱石」になれたか、いくつか本を読んでみよう。

f:id:k-hisatune:20191214220538j:image

 評伝 獅子文六 (ちくま文庫)

評伝 獅子文六 (ちくま文庫)

 

 私の食べ歩き (中公文庫)

私の食べ歩き (中公文庫)

 

 ーーーーーーーーーーーーーーーー

ブログ開始から5555日目。誕生から25547日目。

ーーーーーーーーーーー

「名言との対話」12月14日。東松照明「写真家は見ることがすべてだ」

東松 照明(とうまつ しょうめい、男性、1930年1月16日 - 2012年12月14日)は、愛知県名古屋市出身の写真家。戦後日本を代表する写真家。

学徒動員世代だ。24歳、写真部で学んだ愛知大学を卒業。28歳で第1回日本写真批評家協会新人賞。それ以降、個展や写真集など、精力的に作品を発表していく。65歳、紫綬褒章

報道写真の名取洋之助とリアリズム写真の土門拳という相反する両極の方法を受け継ぎ、つなぎ、発展させ、「日本の戦後史」を写真によって表現すること、それをほぼ一人で成し遂げた。時代とその集積である歴史に、写真という武器で勇敢に立ち向かった。絵に追従する一点写真、何枚か組み合わせてストーリーを語らせる組写真を卒業し、群写真を発明した。「写真は一点ではなく群である」。撮影しているのは映体ではなく、長崎、沖縄というテーマなのだ。

東松のやり方は、出版や展示があるたびに、個々の写真の意味や位置は「編集」され、更新されていく。テーマが誕生すると、全ての写真をリミックスして新たなイメージとして展開していく。この編集という行為は、一つの思想行為であり、東松の写真は「思想写真」といってもいい。モノクロはアメリカが見え隠れしているから、カラーになるとアメリカから離れられるという。白黒とカラーの変化も思想の変化になっている。

1973年5月臨時増刊『現代思想』の「東松証明」総特集号を読んで、二つの特色を感じた。それは移住と曼荼羅だ。1973年、43歳で宮古島に移住。1999年、67歳で長崎に移住。2010年、80歳で沖縄に移住。沖縄で82歳で死去。「沖縄」は、日本人シリーズと占領シリーズが交わる交点だった。亡くなる前年に「写真家・東松照明全仕事」展を故郷の名古屋市美術館で開催して人生のつじつまを合わせている。人生の編集もできていいる。

私がもう一つ注目したのは曼荼羅シリーズだ。1999年長崎マンダラ展。2002年沖縄マンダラ展。2006年愛知曼荼羅展。テーマを中心に、新旧全ての写真を配置し、一つの世界を創造する。この群写真という曼荼羅、これも編集だ。

総特集号を読んでいるうちに、「サラーム・アレイコム」から「泥の王国へ」の巡回展の収益1100万円は、全部ペシャワール会を通してアフガニスタンへ寄付しているという事実を発見した。ペシャワール会はアフガンで亡くなった故・中村哲医師の会である。

 「写真家は見ることがすべてだ」の後には、「だから写真家は徹頭徹尾見続けねばならぬのだ。対象を真正面から見据え、全身を目いして世界と向き合、見ることに賭ける人間、それが写真家なのだ」というメッセージが続く。東松照明という仕事師を人はさまざまに呼んでいる。いわく猛犬、写真界の良心、謎の人、先行者、挑発者、、、。人間として本物だったのだ。

 

参考「現代思想」2013年5月臨時増刊号。「総特集 東松照明 戦後マンダラ」