企画書など。

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コロナ騒ぎで騒々しい。しばらくは沈殿したほうがよさそうだ。

企画書書きと読書に飽きたら、ジムで2時間ほど体を動かす。

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 「名言との対話」2月24日。三橋節子「それで、花たちよ、お願いだ。私が死ぬ日に、あまえたちは私のために、一日だけ、その身体を折り曲げて、その美しい花を地に垂らして、私のために泣いておくれ」

三橋 節子(みつはし せつこ、1939年3月3日 - 1975年2月24日)は京都府出身の画家

京都市美術大学(現 京都市立芸術大学 では秋野不矩に師事。夫は日本画家鈴木靖将1973年に利き手の右手の鎖骨骨腫瘍の癌で命と引き換えに手術により右腕を切断する。その後は左手で創作を続けたが、35歳で癌の転移により他界した。

三橋時雄『岸辺にーー娘 三橋節子』には、父親の目からみた愛娘の闘病の姿が描かれており、涙を誘う。

節子は再起し、残った左手で描くようになる。「三井の晩鐘」は、漁師が赤ん坊に自分の目玉をしゃぶらせて盲目となった龍女に、毎夕三井寺の鐘をついて子が健やかにいることを知らせたという言い伝えで京大病院に掲げられている。「田鶴来」は、鶴の夫婦愛、漁師の夫婦愛の伝説を描いた作品。1873年の新制作協会展に入選し東京都美術館で陳列され、滋賀県立病院の所蔵となった。京都新聞に「私がカムバックできたのは、夫と両親、それに二人の子供のおかげです。作品は家族のものが描いてくれたようなもの」というコメントが掲載された。「鷺の恩返し」は、生命を賭して恩を返した白鷺という沖ノ島の伝説をモチーフとした作品。第2回目の入院後には、「羽衣伝説」を描く。それは「湖の伝説」シリーズを構成していく。

三橋節子は、絶筆「余呉の天女」まで、「野草シリーズ、インドシリーズ、湖の伝説シリーズの70点余の作品を遺している。また、命日には父による追悼集『吾木香--三橋節子を偲ぶ』、誕生日には夫編集による『三橋節子画集』が完成している。

そして三橋節子美術館は、長等公園近くにアトリエを構え、6年の歳月を過ごし、「湖の伝説」シリーズを描きあげた長等公園にある。近江琵琶湖の情感あふれる作品が鑑賞できる。2019年の年末から2020年の3月まで「夭折の画家三橋節子『母子像』ーー永遠なる親子のかたち」展が開かれている。

「湖の伝説ーー三橋節子の愛と死」を書いた梅原猛が、「花折峠」は本来は死と再生の物語であり、節子はこれを死の物語として描いたという解説をしている。花の慟哭の場面だ。それは自らの死を悼む涅槃図だった。冒頭の「花たちよ」は、梅原猛が節子を代弁した言葉だ。

35歳での他界という若さで亡くなった三橋節子は、生きた証として、左手一本で描いた作品を含む3つのシリーズの70点余の作品、また追悼集、画集、単行本、美術館、そして何よりも二人の子どもを残した。周りからもあふれる愛情を注がれた日々だった。この人の生涯が長ければ、大きな画家になっていただことは容易に想像できる。しかし、短い生涯であっても、遺したものが大きいことに感銘を受ける。伝説にモチーフを借り、夫婦、親子、そして自らを描ききったのだ。三橋節子美術館を訪ねたい。

三橋時雄「岸辺にーー娘 三橋節子」(サンブライト出版)