多摩動物公園の京王「HUGHUGランド」

「名言との対話」7月28日。山田風太郎「敵が寛大に日本を遇し、平和的に腐敗させかかって来る政策を何よりも恐れる」。

山田 風太(やまだ ふうたろう、1922年大正11年〉1月4日 - 2001年平成13年〉7月28日)は、日本小説家

東京医科大学卒業、1944年昭和19年)、22歳の時に旧制東京医学専門学校(後の東京医科大学)に合格して医学生となった。医学士号取得。

伝奇小説、推理小説、時代小説の3分野で名を馳せた、戦後日本を代表する娯楽小説家の一人である。『魔界転生』や忍法帖シリーズに代表される、奇想天外なアイデアを用いた大衆小説で知られている。『南総里見八犬伝』や『水滸伝』をはじめとした古典伝奇文学に造詣が深く、それらを咀嚼・再構成して独自の視点を加えた作品を多数執筆した。

 医学生時代に書いていた『戦中派不戦日記』は、同い年の中井英夫の日記と双璧と言われている。そして、『人間臨終図鑑』は不思議な書物だ。第1巻は15歳から55歳で死んだ人々、2巻は56歳から72歳までで死んだ人々、第3巻は73歳から100歳代で死んだ人々の臨終の姿を書いていいる。死んだ年齢でのみ人間を分けていくという斬新な企画だ。司馬遷の「史記」の列伝もそうだが、やはり人間を扱った作品が一番面白い。

生前に戒名を「風々院風々風々居士」と自ら定め、八王子の上川霊園にある墓石には「風ノ墓」と刻まれている。

 『人間臨終図鑑』は、15歳の八百屋お七から121歳の泉重千代まで900人弱の列伝である。各年齢(一部年代)ごとに、主として山田風太郎が「死」についての自身の箴言を載せている。それを順に列挙してみよう。山田風太郎の死生観がわかるはずだ。

「死をはじめて想う。それを青春という」「神は人間を、賢愚において不平等に生み、善悪において不公平に殺す」「人は死んで三日たてば、三百年前に死んだのと同然になる」「路傍の石が一つ水に落ちる。無数の足が忙しげに道を通り過ぎてゆく。映像にすればただ一秒」「人生の大事は大半必然に来る。しかるに人生の最大事たる死は大半偶然に来る」「もし自分の死ぬ年齢を知っていたら、大半の人間の生きようは一変するだろう。従って社会の様相も一変するだろう。そして歴史そのものが一変するだろう」「敵を隔てて痒きを掻く。生を隔てて死を描く」「臨終の人間「ああ、神も仏も無いものか?」 神仏「無い」」「また臨終の人間「いま、神仏が無いと言ったのは誰だ?」 答え無し。--暗い虚空に、ただぼうぼうと風の音」「死は推理小説のラストのように、本人にとって最も意外なかたちでやって来る」「自分と他人との差は一歩だ。しかし人は永遠に他人になることは出来ない。自分と死者との差は無限だ。しかし人は今の今死者になることも出来る」「この世で最大の滑稽事は、自分が死ぬことだ。にもかかわらず、およそ人間のやることで、自分の死ぬことだけが愚行ではない」「臨終の人間「神よ、世界の終りの日の最後の審判などいわないで、いま審判して下さい。まぜ、いま、私が、、、、」 神「では、いおう、最後の審判がいまだ」」「あの連中も待ってゐることを承知の上で、それでも君は「死後の世界」があることを望むのか?」「最愛の人が死んだ日にも、人間は晩飯を食う」「死の一秒前の生者「おれを忘れるな、忘れてくれうな!」 死の一秒後の死者「おれを忘れろ、忘れてくれ!」」「性の快楽と死の苦痛は万人平等である、しからば、なぜそれ以上の平等を求める必要があるのだろうか」「みんないう。…、いつか死ぬことはわかっている。しかし「今」死にたくないのだ」「…、いろいろあったが、死んでみれば、なんてこった。はじめから居なかったのとおんなじじゃないか、皆の衆」「死が生にいう。「俺はお前がわかっている。しかし、お前には俺がわかっていない」」「死の瞬間に、何びとも悟るだろう。…、人生の目的なるものが、いかにばかばかしいものであったかを」「自分の死は地球より重い。他人の死はイヌの死より軽い」「どんな臨終でも、生きながらがらそれは、多少ともすでに新曲地獄編の相を帯びている」「いかなる人間も臨終前に臨終の心象を知ることができない。いかなる人間も臨終後に臨終の心象を語ることができない。何と言う絶対的な聖域」「生は有限の道づれ旅。死は無限のひとり旅」「幸福の姿は一つだが、不幸の形はさまざまだ、とトルストイはいった。同じように、人は、生まれてくる姿はひとつだが、死んでいく形はさまざまである」「人間は、他人の私には不感症だ、と言いながら、なぜ「人間臨終図鑑」など書くのかね」「…、いや、私は解剖学者が屍体を見るように、さまざまの人間のさまざまな死を見ているだけだ」」「自分が消滅した後、空も地上も全く同じ世界とは、実に何たる怪事」「老いても、生きるには金がかかる。…、人間の喜劇。老いても、死ぬには苦しみがある。…、人間の悲劇。地上最大の当然事、、、他人の死。地上最大の意外事、、、、自分の死」「人間は青年で完成し、老いるに従って未完成になってゆき、死に至ってとって無となるのだ」「人間「うまいものは、一番あとにとっておこう」。癌「食物の話なら、それもよかろうが。、、、ワハハ」「人間たちの死は「臨終図鑑」のページを順次に閉じて、永遠に封印してゆくのに似ている」「これこそまさに昼と夜の戦いだ、と死床のユゴーはいった。しかし夜の次にもう昼は来ない」「長命者は大空に残った薄雲に似ている。いつまでも消えないな、と眼を離すと、いつのまにか消えている」「人間には早すぎる死か、遅すぎる死しかない」「…、意味があって、長生きするのではない」「災いになるかな老いて痴呆と病苦に陥らざるもの、彼は死の憧憬を持つ能わざればなり」「残り少ない余命の死が、残り多い余命の苦痛において同量だとは」「人間の死ぬ記録を寝ころんで読む人間」「別れの日。行く人「やれやれ」 送る人「やれやれ」」「人は、忘れられて死んだ方が幸福である。なぜなら、彼はもう音もなく死んでいるのだから」

私が毎日続けている「名言との対話」は、2016年から4年半たって、1600人以上を取り上げたことになる。生きた時代を意識して日本人を中心に人選を行っているが、ある時点で、亡くなった年齢で編集しなおすと、『人物生き方図鑑』になるはずだ。それも一案か。

さて、冒頭の言葉は、敗戦にあたって、医学生山田風太郎が日本の行く末を懸念した言葉である。寛大な占領政策は、日本人を腐敗させると危惧している。慧眼である。牙を抜かれた民族の姿、精神の堕落を山田風太郎は若い時代に予言していたのだ。 

人間臨終図巻 1-3巻セット (徳間文庫)

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  • 発売日: 2001/05/15
  • メディア:
 

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多摩動物公園のHUGHUGランドで、家族(娘と孫2人)と遊ぶ。 

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「名言との対話」8月10日。山田かまち「僕には24時間では足りないよ」

山田 かまち(やまだ かまち、1960年昭和35年7月21日 - 1977年(昭和52年)8月10日)。

17歳の時自宅の2階でエレキギターに感電死する。死後、母親がかまちの部屋のベッドの下から沢山のかまちの絵画が発見された。それをおさめた『悩みはイバラのようにふりそそぐ : 山田かまち詩画集』(1992年)がきっかけで世に広く知られるようになった。

 かまちは昭和35年生まれ。3歳の時には浜田広助の童話「あいうえお」を暗誦、5歳では怪獣を描く、8歳では25枚の小説を書く、小学校の3年生の冬休みにかまちは1時間という短い時間で36枚の動物画を描く。鳥、チータサンショウウオ、水牛、てんとう虫、、、。かまちは動物が好きだった。11歳、子供写生大会で藤五社長賞、カラヤンのファンになる。12歳、読書感想文「山田長政」入選、謝恩会の構成詩を作詞・作曲・ピアノ演奏。中学校では、芥川龍ノ介を好み、天体望遠鏡で冬の空を眺める。SF小説に興味。14歳、ジイド、トルストイに傾倒、SFや詩も書く。アイドル桜田淳子のファン。15歳、原始社会に憧れ絵を描く、氷室京介らとロックグループを結成。16歳高校受験に失敗し浪人、17歳高崎高校入学。そして昭和52年8月10日、高崎高校1年生の夏、山田かまちは自宅でのエレキギターの練習中に感電死する。絵、詩、音楽、天体観察と「僕には一日が24時間では足りない」という言葉が口癖のかまちのあっけない死であった。自室のベッドの下からは数百枚の水彩画とデッサン、詩と童話が発見された。

  ぼくはロックシンガーになりたい/ ぼくはすぐれた画家になりたい/

 ぼくはとても金持ちになるたい/ ぼくはすぐれた作曲家になりたい/

 ぼくは優れた作家、作詞家になりたい/ ぼくは125歳以上は生きたい/

 ぼくはしぶくかっこよくなりたい/ ぼくは人類を幸福にしたい/

 ぼくはすぐれた人に愛される思想家になりたい/ ぼくは感動的な雄弁家になりたい/

 ぼくはとても健康でエネルギッシュな紳士になりたい/ ぼくは幸福になりたい

 ぼくは食べたいとき食べたいものを食べたい/ ぼくはすばらしい美術を完成したい

 ぼくはダウンしたくない/ 

   ぼくは高崎高校に合格して楽しくすばらしい高校生活がほしい/ ぼくは君がほしい!

 ぼくは高高に合格したい/ ぼくはすぐれた演奏家になりたい!/

 ぼくはすぐれた科学者になりたい!/ ぼくは真理を発見したい/

 ぼくは人々に愛される人物にならなければならない

 鹿麻知(かまち)という名前は、「日本歴史物語」(河出書房新書)の中に縄文時代の少年の名前として出てくる。父・山田秀一によれば、平仮名したのは後で自由に意味を持たせることができるからである。かまちこの名前が完全な父の独創でないことを残念がったが、気に入っていた。

かまちは絵もいいが、言葉がいい。

   死の前日の絶筆。 人間の一生なんて/  線香花火のように   はかないものだ

 朝 気持ち良く起きて/ ほんとうに気持ちのよい一日を過ごす。/

 そのためにすべてはあるのだ。/ 気持ちのよい食事/ 気持ちのよい活動/

 気持ちのよい愛/ 気持ちのよい−−−眠り/ なんのいや気のない生活

 そのためにすべてはあるのだ 

 幸せな人/ 幸せな人幸せな人は/ あまり幸せでない人を幸せな幸せな人にする

 小学校からの同級生でロックバンドを組んでいた親友・氷室京介(ロックバンド「BOØWY」のボーカリスト)は次のようにメッセージを贈っている。

 キース・ヘリング アンディ・ウオーホール/ 足早に、その生涯を/ 駆け抜けていった/ 愛すべきクリエーター達/ ビンセント・ヴァン・ゴッホ エコン・シーレ

 ドラマティックにその一生を送ることを運命づけられた天才たち/

 そして君も生まれながらにして選ばれた者達だけが持つ独特な輝きを持ち合わせていたよね/ せめて、あと10年、、、/ あの非凡で多彩な才能を奪う事が できたら、、、、/ 君を思い出す度に その事をとても/ 残念に思います

 

 山田かまち水彩デッサン美術館には、多くの人がノートに書き付けを残している。それぞれに人が生きる勇気をもらっている。

 ・ずっと昔からかまちの存在は知っていた。/ここにくるまで27歳になっていまし

      た。

 ・中学生の終わり頃、あなたの存在を/  知りながら、25歳になる今、やっと

  ここに来て、あなとのつづった詩や絵に触れています

 ・6年前、17歳の時、君の詩と絵、生き方を知ってすごく感化され  受験勉強を放

      棄して、三重県津市からここまで野宿をしながら 自転車旅行をしました 23歳に

      なった今、またここに来ました

   ・4度目の訪問です、17歳になりました 

   ・25歳の社会人です

 ・19歳です。17歳の時に来たかった

 ・60代の定年退職者。君に負けないように「生きたい」

 

 山田かまちの文章、絵、詩、写真は、国語、社会、美術、英語などの教科書に載っていて若い人は知っている人が多いのだ。

かまちが詩を書き、絵を描き続けた対象が、佐藤真弓さんである。かまちは好きでたまらなかったが、佐藤さんはとまどっていたようだ。しかし、遺作展を見て「一生涯にこんなに愛されることがあったのかと、言葉にすることができないほど感動しました」との言葉が作品集の中にあった。佐藤さんはいまでも独身だということだ。

この日の訪問者は私一人だったので、館長の広瀬毅郎さんとゆっく話をする機会があった。隣に画廊を営む広瀬さんは、井上房一郎氏(美術評論家)が遺作展を開きたいので画廊を貸して欲しいとの申し出を受ける。かまちの絵と激しく短い生涯に魅了され、「宮沢賢治に似ている」と思い、かまちの絵と詩を飾るレンガ造りの小さな美術館を建てようと決心する。その3年後平成4年に美術館がオープンすることになる。「広瀬さんはいい仕事をしてしましたね」とねぎらう。山田かまちの人生の不思議な余韻にひたりながら美術館を後にした。

「24時間では足りないよ」と言っていたかまちには、17年の生涯しか与えられなかった。しかし、永遠の命も授かったことになる。