仕事始め:「2024年の計画」に沿って今年が始まった。

年末に総括し、年初に計画を立てるというサイクルを継続している。

2024年の計画では、昨年の総括が2枚。そして今年は「考え方」「運勢」、それから「公人」、「個人」、「私人」という分類で9枚、計11枚を書いた。

  • 2023年は2020年からの恐るべきコロナ禍をくぐり抜けて社会がようやく一息ついた年であった。私自身にとっては、コロナ禍の数年間は社会の大混乱の中で、新しいコミュニケーションツールを携えて新しい仲間と次の時代への模索を試みた時期であった。そして2023年は、過去の知的活動の集大成がほぼ完成をみた画期的な年であった。また長年たずさわってきた組織を安定軌道に乗せることができた年でもあった。
  • その延長線上に取り組むべきいくつかのプロジェクトが浮上している。大小の建築物のように見えている。それらはやや不安定な形で明滅している。まるで蜃気楼のようだ。これから数年かけて、その蜃気楼を現実の形ある実在に変えていくことになる。進むべき道は、いくつかの筋から選ぶものではなく、試行錯誤の中で自然に見えてくるものなのだ。昨年亡くなった谷村新司の名曲『昴』のように、荒野に向かう道を行こうとする「この身を照らせよ」と言いたくなる心境だ。
  • 人生をどうとらえるか。私は一個の作品としてみている。いつも誕生から死去するまでの生涯を意味のあるものにしようとする過程にある。この作品は最後までその姿はおぼろであって明確な像は結ばない。「棺を蓋いて事定まる」のだ。

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計画を道標に、今日から進んで行く。

  • 「図解塾」の準備:「梅棹忠夫著作集」第13巻「地球時代に生きる」の読み込みと図解の補足。
  • 「蜃気楼大学」一日学長あいさつの執筆。
  • メルマガ「久恒啓一の学びの軌跡」1408号を配信。
  • NHKラジオアーカイブス「声でつづる昭和人物史」は栃若時代を担った横綱栃錦。1960年春場所の千秋楽で若乃花に敗れ35歳で引退。春日野親方となる。1974年に日本相撲協会理事長。1985年に両国国技館を完成させる。「力士は力のある紳士」。(保阪正康さんの解説)。来週は横綱若乃花
  • NHKラジオで漫画家・随筆家・画家のマザキ・マリと脚本家・中園ミホ(「あんぱん」の脚本を予定。占いの本)対談が面白かった。
  • テレビ:渡辺京二吉本隆明に影響を受ける。郷里・熊本で発刊した雑誌「熊本風土記」で石牟礼道子と知り合う。雑誌は楽しい。アンサンブルをつくれる。人が集まる。
  • 8300歩

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「名言との対話」1月9日。海部俊樹「海部の前に海部なし、海部の後に海部なし」

海部 俊樹(かいふ としき、1931年昭和6年〉1月2日 - 2022年令和4年〉1月9日)は、日本政治家。第7677内閣総理大臣。享年91。

愛知県名古屋市出身。早稲田大学法学部卒業。1960年、自由民主党から全国最年少で衆議院議員初当選し三木派に所属した。三木武夫内閣の官房副長官となりさわやかな弁舌で注目される。その後、福田赳夫内閣、中曽根康弘内閣で文部大臣。

1989年に自民党リクルート事件で惨敗した後に、宇野内閣退陣で、最大派閥竹下派に推され総裁となり首相に就任。翌年の湾岸戦争では多国籍軍への資金援助と自衛隊艦派遣を行った。

1991年、政治改革を目指した選挙制度改革案が自民党内の支持を得られずに衆議院解散の動きを見せたため、竹下派の反発を招き総辞職。その後、1994年に自民党を離党し、新進党党首に選出された。自由党・保守党などを転々とし2003年に自民党復党した。

私は20代のJALロンドン空港勤務時代に訪問中の父母を見送るためにラウンジで歓談しているときに、海部さんがいるのを見つけた。父は写真を撮っていたことを思いだした。

「神輿は軽くてパーがいい」と自民党竹下派幹部の小沢一郎が言い、総裁、総理となったといわれている。トップは誰でもよくて、担ぎやすい軽い政治家がいいという意味である。田崎史郎は1994年10月号の『文芸春秋』で、この言葉は海部をさしたものではなく、誤って伝えらえたと説明している。

海部には弁舌の才があった。早稲田大学雄弁会で活躍した学制弁論大会で優勝したとき、審査に当たった当時の総長から、「海部の前に海部なし、海部の後に海部なし」と評されて、この言葉が有名になった。

海部には人脈があった。早稲田大学雄弁会は、石橋湛山竹下登海部俊樹小渕恵三森毅郎5人の総理を出している。有力政治家としては三木武吉浅沼稲次郎中野正剛緒方竹虎石田博英青木幹雄。現役では下村博文安住淳など。首長は黒岩祐治。その他として、三宅久之田勢康弘尾崎士郎もいる。総理就任時は、親しかった雄弁会の先輩である竹下登から口説かれている。

海部には天運があった。師事した三木武夫は、田中角栄首相に退陣で、椎名悦三郎副総裁による裁定で首相に指名された。「私は国家、国民のために神に祈る気持ちで考え抜きました、、、私は新総裁にはこの際、政界の長老である三木武夫君が最も適任であると確信し、ここにご推挙申し上げます」。いわゆる椎名裁定である。三木は「青天の霹靂だ。予想だにしなかった」との言葉で受諾した。海部の場合も、自民党の苦境下、大派閥の事情によってお鉢が回ってきた。面白いことに政治だけでなく、さまざまな組織でも時々こういう人事がある。

海部俊樹という政治家は、弱小派閥に属していたにも関わらず、総理の座を射止めたのは、本人の才能と人脈と天運のなせる業であった。そして、海部は2年を越える期間、力を振り絞って重要課題に立ち向かった。

学生時代に評価された「海部の前に海部なし、海部の後に海部なし」という弁舌の評価が一生ついてまわった。時節の到来という運命が口をあけたときに思いがけないことが起こる。評判というものの威力を感じるエピソードだ。人間は評判が大事だ。評価ではなく、評判である。人事は味方や敵を含めた周囲の評判によって決まるという見本であるとまとめておこう。