「石原裕次郎の軌跡」展--人の悪口は、絶対に口にするな。人にしてあげたことは、すぐに忘れろ。人にしてもらったことは、生涯忘れるな

昨日、松屋銀座で開催中の「石原裕次郎の軌跡」展を訪問。予想どおり年配の裕次郎ファンで込んでいた。

「映画」「テレビドラマ」「歌手」「ファッション」「プライベート」の5つのパートに分かれて、裕次郎の軌跡を明らかにする展示だ。

小樽の石原裕次郎記念館は、1991年開館。累計2000万人が来館し、2017年に惜しまれながら閉館となった。没後30年を記念したこの企画展は、全国を縦断する。この記念館所蔵の作品や資料が展示されている。

映画で使用されたドラムや小道具。テレビドラマで着用した衣装。100着を超えるスーツ。愛車のベンツ300SLガルウング。、、、。

爽やかな笑顔、憎めない愛郷、漂う品のよさ。仕事やヨットやゴルフ(シングル)などの趣味を楽しんだ。人とのつながりを大切に、人生を謳歌した昭和の大スターだ。

美術に造詣が深い。ダリを好んだ。書がうまい。

石原慎太郎のベストセラーに石原裕次郎のことを書いた「弟」という作品がある。作家と俳優というこの二人の年齢差は二つ。この作品を読むと兄の目から弟や弟との関係を描いていて、共感を覚えるシーンが多々あった。私の弟にも読むことを勧めた記憶がある。仲間、ライバルなど微妙な二つ違いの関係や感覚を描いた傑作だ。

名言「人の悪口は、絶対に口にするな。人にしてあげたことは、すぐに忘れろ。人にしてもらったことは、生涯忘れるな」。

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映画:100余の作品。レコード:シングル237枚。LP223枚。

嵐を呼ぶ男」「太陽の季節」「太平洋ひとりぼっち」「黒部の太陽」「富士山頂」などが印象に残っている。熊井啓監督の「黒部の太陽」は734万人を動員。三船プロダクション石原プロモーションの合作だった。「男が命を賭けるのはやっぱり映画だよ」。

歌手:「嵐を呼ぶ男」「赤いハンカチ」「夜霧よ今夜もありがとう」「ブランデーグラス」、、。

裕次郎がもっとも尊敬する女優・奈良岡朋子「人の悪口を聞いたことがない。太陽のような人」

小澤啓一監督「人なつっこく、ヤンチャで人をくったようなところがありましたが、おらかでした」

竜雷太「大きくて柔らい人、自然に人を惹きつける人」

遠藤千寿(テーラー)「洋服に限らず、映画でも何でも作ることが大好きなんです。、、最初から自分のポリシーを持っている」「暇があると本を読んでいたので博学でした」

映画スタッフ「スタッフたちの名前も全部覚えて」「自然体」

プロデューサーの増田久雄が「死んで30年経っても語り継がれるというのは、これは人間的魅力があってこそ」というように、スタッフや記者も含めて、人間・裕次郎が好きだったのだ。映画やドラマや歌で同時代の人々だけでなく、自分の周りに深い影響を与えた人だ。

石原裕次郎の軌跡

石原裕次郎の軌跡

 
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映画「人生フルーツ」。

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「名言との対話」8月26日。田村隆一「一所懸命」

田村 隆一(たむら りゅういち、1923年大正12年)3月18日 - 1998年平成10年)8月26日)は、日本の詩人随筆家翻訳家

 田村隆一は戦時中、明治大で萩原朔太郎の詩の授業を聴講しているで、学期末試験の問題は「詩について感想を述べよ」には「帝国陸海軍ハ本八日未明、西太平洋ニオイテ米英軍ト戦闘状態ニ入レリ」という大本営発表を田村は引用し、「これ以上の詩的戦慄をあたえてくれる『現代詩』」はない、と答え、最高点に近い点をもらっている。

詩人としての業績は破格だ。1963年、『言葉のない世界』で高村光太郎賞。1978年、『詩集1946~76』(最初の全詩集)によって第5回無限賞。1985年、『奴隷の歓び』で読売文学賞。1993年、『ハミングバード』で現代詩人賞。

「人類そのものが愚かなものだと自覚できる人が利口。できない人がバカ」

「仁義すたれば銭湯すたる。銭湯すたれば人情もすたる」と面白いことを言っている。この意味は「おじいさん、おばあさん、それに孫たちというたて糸と、町内のヨコ糸がまじわるところに銭湯がある」だった。

田村隆一は5回結婚している。最初の妻は鮎川信夫の妹。2度目の妻は福島正実の従姉妹。谷川俊太郎の最初の妻の岸田衿子は3度目の妻。高田博厚の娘の田村和子は4度目の妻で、この恋はねじめ正一の小説『荒地の恋』のモデルとなった。最後の妻は田村悦子。同棲を含めると9回も女性と暮らしていたという発展家だった。

長身痩軀、モダンにして洒脱、柔らかな感性。スコッチウイスキーの愛飲家であった田村は鎌倉の私邸に迎え入れる客人にも、ウイスキーをふるまい、酒仙詩人という敬称でも呼ばれた。酒は文化圏のシンボルであるというこの詩人は、「言葉は文化がつくりだした酒である」とも語っている。「青年の酒、壮年の酒、老年の酒。その節がわりに、車窓の風景も変わってくる。酒を飲むことは、旅をすることだ」。田村隆一は、文化のシンボルである酒を愛し、人生を旅し、そして文化の酒たる見事な詩を紡いだのだ。

「一般的には『一生懸命』と表記されるけれど、私は『一所懸命』と書く方が正しいと思う。なぜなら、ただ一カ所の井戸をひたすら掘ることが懸命に生きることだから。自分は詩人として一つの井戸を掘り続ける。どこまで掘ったら水脈に当たるかなんてわからないけれど」と語っていた田村隆一は、詩という井戸を掘りきって大水脈にたどり着く。太平洋戦争後の荒廃した社会を的確な詩で表現し、谷川俊太郎らと並んで戦後詩壇を代表する存在になった。人はそれぞれの持ち場やテーマを、命を懸けてどこまでも掘り進むべきなのだ。