「反体制の詩人」佐高信と寺島実郎の対談から

「新しい世界観を求めて」(佐高信寺島実郎毎日新聞社)を読了。
反体制に立っている佐高信と肌合いの違う寺島実郎との対談は、互いの立ち位置をくっきりと浮かび上がらせた。寺島の考えていること、本音がより直截に出てきた内容になっているので、大変に面白く、触発されながら読み終わった。
司馬遼太郎梅棹忠夫も対談の名手であったが、対談という言う知的装置は同時代の巨人という相手との知的緊張と人間的紐帯の中で、その本質がより先鋭に出てくるという仕掛けを持っていることを改めて感じた。

新しい世界観を求めて

新しい世界観を求めて

以下、寺島側に立ってきた私の琴線に触れたそういう部分のみをピックアップしてみた。

  • 私は誰かのブレーンになることで満足できるほど単純ではなく、受け身の人間でもありません。
  • ポピュリズムの行き着く先は、歴史の教訓が教えているのは確実にファシズムなんですよ。(フランス革命のナポレオン、ワイマール共和国のヒットラー
  • 本当の意味での社会政策、さらには本当の意味での分配の基軸を再考する必要がある。、、誰が分配の恩恵を被り、誰が分配を負担していくのかということについて、明確な政策思想を打ち出して方向性を定めていかないと、、
  • 僕は石橋湛山という人の見識を非常に尊敬しているんですが、、、軍国主義が吹き荒れている時に、「小日本主義」を掲げて満州を放棄してでもアジアとの連携を図るべきだと言っていた。
  • (日米関係の抱える問題)いま我々が議論しているテーマというのは、現代の条約改正なんですよ。、、情念と時間がかかる。、、普天間問題はあちこちに迷走していたけれども、あれがきっかけとなって条約改正が行われたと総括するような形にしていかなればいけないと思うんです。
  • 僕はリベラル保守という立場で一貫しているつもり、、
  • バイバル・ゲームですから、僕はそこが他の人と違うんですよ。取材して歩き、見て論じるだけではなく、問題を解決しなくてはいけない。
  • 小学校の時に、僕が生徒会長をやっていた時、、
  • 市井のの人というのが一つのキーワードになりますね。言い換えるならば、それは民族の地力と言えるでしょう。
  • 「種」((類は人類、種は民族や国家、個は個人)のところに身を置いて議論すると、右からも左からも現実に批判される。その気迫がなかったら、とても発言などできません。だから、個から類へ飛ぶ。そうすれば誰も反対できないわけですから。
  • 「小さな正義」と「大きな正義」、、。方法論がよくないというような「小さな正義」、、大事なのは「大きな正義」、、。時代を変えたり、社会を変えたりするもの、、。その軸を失ってはいけない。
  • 僕の視点は、問題の本質がどこにあり、いかにその問題を解決するかにあります。、、責任を共有し実務を実行する。
  • 僕は小田実よりも加藤周一を敬愛している。
  • 僕が共鳴心を働かせる人間は国境を越えて闘った人です。
  • 「こいつはダメだ」と思ったら歯牙にもかけず、その人物には五分と時間を使いません。
  • ほとんどの人に襲いかかってくる中年の危機があります、、自分の能力の限界や人間関係を含めて様々なことで挫折し悩みます。、、問題はそれをいかに乗り切るかです。、、それぞれの人たちが、どういう形で自分の中年の危機を乗り切ったのか。いろんな意味で興味があって対談を続けてきました。
  • 人間は人間によって育ちます、、。
  • 「リベラルである」とは「相対的である」という意味です。絶対的な価値に酔いしれないことがリベラルということです。つまり、自分の頭で物を考えているかどうかです。、、自分の頭で考える力のある人間がリベラリストなんです。
  • 私自身は、生身の人間として体制と帰属組織に身を置きながらも、体制との知的緊張を失うまいとの思いで「体制の全体知」を求めてきた人間だが、「反体制の詩人・佐高信」の潔い目線は常に心に置かなければならないと感じている。