小島善太郎記念館ーー「画はわたしの自伝です」(九十翁)

小島善太郎記念館。

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小島善太郎(1892年11月16日ーー1984年8月14日)。

13歳浅草の醤油店に住み込み。16歳谷中の「墓地で絵を描く画家の姿に感銘し画家を志す。18歳中村覚陸軍大将に見いだされ書生となる。23歳安井曾太郎の帰朝展に心を打たれ師事する。30歳野村徳七の後援でパリに留学。33歳帰国。39歳百草の土地を所有。75歳東京純心女子短大教授。79歳百草にアトリエを新築し転居。1983年91歳逝去。1984青梅市立小島善太郎美術館開館。2013年日野市立小島善太郎記念館開館。

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絵画技法。1.「〇□△について」。〇は暖かく感じる。□は安定を感じる。△は冷たいと感じる。2.「りんごと桃の光りb」、りんごは光をはねつけて美しさを表現している。桃は光を吸収して美しさを表現している。3.「絵を描くのは、自分の成長のために描く」。

 以下、小島敦子「百草画荘作品解説」から。

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80歳。「百草画荘」。「絵を描くことは苦しみとの戦い」といっていたのが、「絵を描くことが楽しい」というようになった。

83歳。「裸婦を描くとその人の教養が出るので怖いのだ」

次女の敦子さんの回想にいれば、アトリエで裸婦を描いているとき「おい敦子おしりを見せてくれ」と、、、、母が「それは、、、」。私は翌日ある方に話をしたら「お父上に協力しないと後悔しますよ」といわれ父に「どうぞ」と申し出たら「もいう描き上がった!!」と、、、。

90歳「俺は基礎から勉強しなおす」。「セザンヌエスタークに籠った。俺は小屋を建てる」(「八ヶ岳山麓にて)。

庭に自筆の二つの碑がある。その一つには「画はわたしの自伝です」(九十翁)とある。

初孫の大津由美子は、「暗くなるとビール瓶と一緒にお風呂に入ります・ゆっくりとぬる燗のビールが出来る頃にビール瓶片手にお風呂から出てくる」と回想している。

小島はこの百草画荘に暮らしからは、「絵を描くのが楽しい」と言うようになった。

 百草画荘は、大林組の横松幸助の設計で、大磯の吉田総理と三鷹のTBSの今道潤三社長の設計者だ。
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2019年 11月17日に訪問した時は、ちょうど東京のお茶の会で10数人の団体が見学に来ていて、善太郎の次女の敦子さんが解説してくれたのを一緒に聞いた。敦子さんは1927年生まれの92歳。

  • 80歳を越えてから「一から勉強し直す」として、面会は短い時間にしたいと玄関に紙を貼った。
  • 敦子さんをモデルにした「若妻像」は1983年の作品で、善太郎は90歳。
  • 青梅の小島善太郎美術館には大作。八王子夢美術館には中小の作品と資料。この自宅のアトリエと茶室を持つ記念館は日野市に寄付したもの。79歳のときにアトリエ「百華画荘」と詠んだ自宅を経てた。7年前に開館。部屋いっぱいに展示している絵には年代と年齢が添えてある。
  • 大恩人の中村覚大将。安井曽太郎野村徳七セザンヌ
  • 「桃」を描かせたら右に出るものはいない。
  • 「眼福」というタイトルで「見ることの幸せは人生の幸せの大なるものなり。
  • ふすまの漢詩。「知音」。優れた親友を知る事。中国の故事。琴の名人にきこりの身分で価値をわかる親友ができた。この親友がこの世にいなくなったことを知ったとき、名人は琴を壊した。
  • 和・漢・洋。アトリエ、ふすまの漢詩。茶室。

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若き日の自画像 (1968年)

若き日の自画像 (1968年)

 

 「百草画荘ー小島善太郎と記念館開館によせて」(小島敦子)

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午前:ヨガ。ややハードで汗をかいた。

午後:二つの出版社をはしご。

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「名言との対話」11月26日。宮城音弥「心とは何かーー少年時代の私を悩ましたこの疑問が、私に心理学を一生の仕事として選ばせた」

宮城 音弥(みやぎ おとや、1908年3月8日 - 2005年11月26日)は、日本の心理学者。

京都大学で哲学を学んだ後、パリ大学で心理学、精神医学を学ぶ。帰国後は昭和医学専門学校で医師免許を取得した。東京工業大学教授、日本大学教授。1950年代から1970年代にかけて、臨床重視の心理学書を多数発表し、心理学ブームをまき起こした。1970年代はマスコミでよく名前を聞いていた記憶がある。

宮城音弥「心とは何か」(岩波新書)を読んだ。

「まえがき」の冒頭には「心とは何かーー少年時代の私を悩ましたこの疑問が、私に心理学を一生の仕事として選ばせた」

「あとがき」には、「「心」とは何か。霊魂はあるか。「心」は意識か、「心」は行動か、「心」は脳の働きか、「心」はエネルギーかといったことを語った。さらに「心」は要素の集合か、全体的なものか、「心」は目的に向かって進行する動きか、「心」は測定できるか、「心」は了解できるかについて考え、「心」は自由か、「心」は自我かといったことを問題にした。私は、あるいは、もう一章を加えるべきだったかも知れない。---心は機械の一種か、あるいは心はコンピュターのごときものか、という点である。「あとがき」の最後は「本書によって心理学史をふくめた心理学の鳥瞰図を描くことを試みたユエンである」だ。

この本には、「心の研究者たち」のリストが載っていて、彼らの登場するページを参照できるようになっている。ジェームズ、フェヒナー、ヴント、ワトソン、パヴロフ、ジャネ、ウェルトハイマー、ケーラー、コフカ、レヴィン、フロイトユング、ゴルトン、ビネ、ヤスパースクレッチマー。そして人名索引と事項索引まで記載している。

「心とは何か」というような大テーマを、レベルを落とさず岩波新書でわかりやすく説明するという難題をこなす力は秀逸だ。心理学史とコンピュータサイエンスにまで目配りがきいている。

他には『日本人の性格』『夢』『精神分析入門』『超能力の世界』『天才』『娘を早く嫁がせる法』などの著者がある。

清水幾太郎丸山真男と二十世紀研究所を設立したり、「封建的マルクス主義」という論文ではスターリン批判を行うなど、教育、宗教、文明論などでも活発な評論活動を行った。宮城は「臨床」を意識していたのではないだろうか。哲学、心理学、精神医学という学問分野の横歩きをしながら、人間心理が織りなす社会問題を「心理」の面から解き明かそうとしたのだろう。少年時代に心に浮かんだ「心とは何か?」という大きな問いに、挑み続けた生涯だった。

 心とは何か (岩波新書 黄版 144)

心とは何か (岩波新書 黄版 144)