〈わたし〉は、公・私・個、3つの軸でできているー幻冬舎オンラインの連載の2回目

幻冬舎オンラインの連載の2回目。

〈わたし〉は、公・私・個、3つの軸でできている

[図]人生=公人+私人+個人

ポストコロナの時代では、より「個」の自分が問われる

ワークライフバランス」という概念への疑問

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人物記念館訪問。

大田区立龍子記念館「川端龍子VS高橋龍太郎コレクション」展。コレクター高橋龍太郎に興味。龍子記念館の訪問は2度目。

・「たばこと塩の博物館」の「杉浦非水」展。2015年に渋谷から墨田区に移転した博物館を初めて訪問。グラフィックデザイナーのさきがけの仕事をみる。常設展示は「塩の世界」と「たばこの歴史と文化」。

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名言との対話」9月14日。三木淳「創造の世界にはゴールはない」

三木 淳(みき じゅん、1919年9月14日 - 1992年2月22日)は日本の報道写真家。

岡山県倉敷市生まれ。10歳ごろより写真撮影に親しむ。慶応義塾大学経済学部在学中から写真家を志し、1941年、グラフィック・デザイナーの亀倉雄策の指導を受け、写真家・土門拳の助手を務める。1943年大学を卒業、貿易会社に入社するが、直後に陸軍へ入隊。

第二次世界大戦終結後、1947年名取洋之助の誘いを受け、サンニュースフォトス社に入社、極東軍事裁判の撮影を担当する。同社から創刊されたグラフ雑誌『週刊サンニュース』に東京の停電の様子、銀座、職業安定所常磐(じょうばん)炭鉱などを取材したドキュメントを多数発表。

1949年、タイムライフ社東京支局の依頼で、シベリア抑留からの引き揚げ再開で帰国した元陸軍兵たちを撮影し、このルポが『ライフ』誌に掲載されたことをきっかけに、正式に入社する。数々のルポを発表した。1951年のサンフランシスコ講和条約調時の首相吉田茂を撮影し、同誌表紙を飾った写真はよく知られている。

1950年に自らの提唱により写真家グループ「集団フォト」を組織、顧問に土門拳木村伊兵衛を迎え、大竹省二田沼武能らが参加。翌年、集団フォト第1回展に際し、フランス人写真家アンリ・カルチエ・ブレッソンの作品を初めて国内に紹介し大きな反響を呼ぶなど、海外のフォトジャーナリストたちと日本の写真界の交流の推進にも貢献した。

1957年にタイムライフ社を退社。1958年から1959年にかけて中南米各国を取材撮影。1960年雑誌『日本』に発表したルポ「麻薬を捜せ」で講談社写真賞受賞。1962年の個展「メキシコ写真展――新興国の表情」で日本写真協会年度賞受賞。1977年に日本大学芸術学部教授に就任して以降、後進の指導にも力を注いだ。1977年、日本写真家協会会長。

三木淳賞という賞がある。若手の写真家の活動を支援する目的で、銀座ニコンサロン30周年記念事業として始まったものだ。「受賞作家新作展」の映像をいくつかみてみた。第21回三木淳賞受賞の山下裕の「コスメティック」はインドネシアのジャワ島で採掘された硫黄が最後には化粧品になっていく、その流れを追った作品である。硫黄採掘現場の悪い労働環境から先進国の化粧品が生まれることを告発した作品だ。

第19回三木淳賞は斎藤茜の「扉は外に開かれている」という作品。引きこもり状態にある妹の日常を撮ったもものだ。どちらも、現代の問題に切り込んでいる。この賞がすでに20年以上続いていることで、三木淳の志は生きている気がする。

以下、三木淳の言葉。

・いろんな本から新しい知識を得て、なるべくその人たちの真似をしないように、しかもそこに自分独自の道を発見しようと努力している。

・写真家としての心の故里は、いつも「ライフ」につながっているのだ。私は「ライフ」に働いたことに大きな誇りを持ち「ライフ」の発展をいつも希っている。

・映画は監督、脚本、演技者、撮影技術、音響効果によってその価値がきまるものであろう。私たち報道写真家はこれを自分一人でやらねばならない。私は黒澤映画のヒミツを前から探りたいと思っていた。あのダイナミックな表現を自分のものに出来たなら如何に素晴らしいことだろうかと夢見るのである。

・遠くから見て全容を知り続いてグッと近寄ってデテールを見ようという作戦をもっぱら使っている。

・平和というものがいかに人間に大切であるかということを見てもらいたいと思い、人間が戦っているような写真は撮らないできた。これは私が死ぬまで、朝鮮戦争で体験したことのアンチテーゼとしての、私の写真術の基本的なものに今後もなっていくのではないかと思う。

・彼等にぼくと同型の写真家になってもらいたいとは思わない。創造性の豊かな個性のあふれた異種の写真家になってもらいたい。

・残念ながら日本にはまだ、写真美術館というものが一つもない。こんどの酒田の土門拳記念館の建設を契機に、例えば横浜や川崎など地方自治体で、写真の話がそろそろ出かかっている。酒田の皆さんとともに、われわれは少しでも協力していきたい。

・私にとって写真は哲学である。自然が私の周囲を回っている時、感性がスパークした一瞬シャッターを切る。私のこころは一枚のフィルムに刻印される。自由とはなにか。
平和とは何か。美醜とは何か。これらの設問に写真は答えてくれる。写真を極めることは難しい。しかし、挑戦することは娯しい行動である。

三木淳には名言が多い。今回は「創造の世界にはゴールはない、次から次へ発展していくわけですから。それから、自分がやっていることに、プライドを持って欲しい。社会の一般の人が知らないことを、自分がお知らせする。その真実とはこうである、ということを知らせる責任が、この職業にはある、と僕は思うんです。だから、今度生まれ変わっても、僕は写真家になりますよ。写真家は、そんな素晴らしい職業なんです」を採りたい。

創造の世界では、ひとつの仕事を成し遂げると、次の仕事が迫ってくる。山を登りきると次のもっと高い山が見えてくる。その繰り返しであり、あるときふと振り返ると登って来た山々がパノラマのように眼下にみえる。前を向くと次に登るべき山が誘っている。創造の世界にはゴールは存在しない。

写真家という創造的職業の素晴らしさを語った三木淳の言葉は、写真家を志す日芸日大芸術学部)の若者や若手写真家には響いただろう。三木淳という写真家の影響は続いている。