拙著『50代からの人生戦略は「図」で考える』の愛読者と昼食。

近藤さんに山形で地域協力隊で活動している滝口恵子さんを紹介してもらう。多摩センターの「ラ・パーラ」で昼食。ボランティア、ワイン、図解、、、。

滝口さんは拙著『50代からの人生戦略は「図」で考える』(プレジデント社)の愛読者で、「人生鳥瞰図」とそれにいたるサブ図解を何枚もみせてもらった。これほど熱心に読んでくれて、図解を作成し、その人生戦略を実行してくれている人と接するのは初めてだ。『アクティブ・シニア革命』の次号に登場してもらう予定。

「ラ・パーラ」

後姿探検隊。

朝:田原さんと意見交換。
夕:力丸君と図解プロセッサのミーティング。

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「名言との対話」4月25日。小林ハル「良い人と組めば毎日が祭り、悪い人と組めば修業」

小林 ハル(こばやし ハル、1900年(明治33年)1月24日 - 2005年(平成17年)4月25日)は、日本の瞽女。晩年に「最後の長岡瞽女」、「最後の瞽女」として脚光を浴びた。享年105。

生後3か月で失明。5歳で入門、7歳から稽古、8歳で初めて巡業に出て以降、22歳で師匠になり、1973年(昭和48年)に廃業するまでの65年間、西頸城郡を除く新潟県全域と山形県の米沢・小国地方、福島県会津地方を巡った。

瞽女は越後高田や新潟長岡に多く、3人から5人ほどがグループとなって、雪解けから12月まで村から村へ旅を続け、味線を弾き、祭文松枝を歌い、閉ざされた山国の寒村に娯楽を持ち込んだ。雪深い地域のの人々にとって、瞽女の訪問は唯一の娯楽だった。

瞽女唄」は、盲人女性が三味線を伴奏楽器にした音楽をいう。彼女らは芸能集団を維持するために厳しい掟を守らねばならない。結婚もできない。想像を絶する生活だ。甘えは絶対に許されない。弱点をかばいあいながら団結して外敵と外圧に対処していかなかぎり生きていくことができない弱者たちだ。守り本尊は弁天さま、お不動さまだ。

1978年(昭和53年)「瞽女唄」が「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」として選択され、その保持者として認定される。1979年(昭和54年)、黄綬褒章を授与される。選択無形文化財の保持者に認定されたことをもって人間国宝となった。105歳まで生きたセンテナリアンだった。

『最後の瞽女 小林ハル 光を求めた105歳』(NHK出版)を読了。「良い人と組めば毎日が祭り、悪い人と組めば修業」。語りは小林ハル、構成は元NHKチーフディレクターの川野楠己。

「何事も修業だと思わなければ、続けていかんねぇね」「本当のことは神さまや仏さまが見てよく知っていなさるんです」もったいない」「一度聞いたら一度で覚えろ」

この本の中の雪が降ると方向感覚を失うという話のところで、帯広点字図書館を創設した全盲の傑人・後藤寅市(1902~1971)という人が出てくる。この後藤寅市は、知り合いの帯広の後藤健一さんの祖父であろう。

 岡山県倉敷出身の斎藤真一画伯は、高田瞽女に密着取材をし、『絵日記・瞽女を訪ねて』などを出版した。斎藤真一の描く瞽女の絵は、2007年に山形県天童市の出羽桜美術館の分館「斎藤真 心の美術館」でみて感銘を受けたことがある。った。斉藤の描く絵は、悲しい絵であるが、赤が鮮烈である。「赤より「赤赤」という字に惹かれてならない。「赤赤」は火のように鮮やかでパチパチ音をたてて眼底に焼き付いているような滲みの余韻を持っているから妙である、と自身が語っていた。旅の中での絵と日記を展示してあった。悲しみと哀しみの絵である。

川野楠己は、音質が劣化しないデジタル録音でCD化して残そうとして『最後の瞽女 小林ハル 96歳の絶唱』を完成させた。

百寿者となった最後の瞽女小林ハルの「良い人と組めば毎日が祭り、悪い人と組めば修業」は、名言だ。楽しい日々より苦しい日々の方が多かったに違いない小林ハルは、「いじめとも思える仕置きや、修業のときに味わった苦い体験を弟子たちにはさせないぞ」と決意していく。そして後輩たちの日々が「祭り」となるように心がけたのだ。

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