藤沢周平は、葛飾北斎ではなく、歌川広重である。

藤沢周平記念館は2010年に刊行した「藤沢周平記念館」という小冊子から。

教師になって2年の24歳の青年教師は結核になり6年間の闘病生活を送る。結核療養所を出た時には藤沢はすでに30歳になっていた。「面白くてしょうがなかった」と述懐する業界新聞も記者をこなしながらせっせと懸賞小説に応募するため土日は書くことに専念する。デビューは44歳という遅咲である。この療養中に俳句を始める。そこで省略、簡潔、凝縮という武器を身に付けた。
1973年に45歳で直木賞を受賞。46歳で独立し1997年までの26年間の作家生活に入る。単行本、文庫本を合わせて74冊を書く。69歳で死去。

肝臓が悪く、食後30分は横になる習慣があり、8時間は睡眠をとっていた。常に体調を気にしながらの生活だった。体温は35度台と低かった。煙草、コーヒー、辛い物、熱い物が大好き。果物が好物。

デビュー作で画家・北斎を描いたが、目指したのはライバル・広重だった。北斎のように人を驚かす斬新な構図をとらずに、人間の哀歓が息づく風景という人生の一部を切り取った広重のような作風が藤沢周平のものだ。

以下、2006年の「北斎と広重」展(仙台三越店)--原安三郎秘蔵浮世絵風景画コレクション初公開をみた時のブログの記述から。
 歌川広重(1797年ーー1858年)は、北斎より37年後に生まれた。13歳で定火消同心の家督を継ぐが、15歳で歌川豊広に入門し、27歳で家督を譲り制作に専念する。大胆な構図を得意とした北斎に対し、 「江戸のカメラマン」と呼ばれた広重は写生的な作風だ。ゴッホ(1853--1890年)は、広重の晩年の作に強い影響を受けている。
 代表作である「東海道五十三次之内」は、北斎富嶽三十六景と比較されるが、広重は道中の臨場感を出すために人物を大胆に配し、観る人に旅の疑似体験をさせようとする意図が見てとれる。
 北斎と広重という二人のライバルは、作風、画名の考え方、生活のレベル、主観と客観、弟子の多少、死への考え方など、対照的な人生を送っている。

  • 小説を書くということはこういう人間の根底にあるものに問いかけ、人間とはこういうものかと、仮に答えを出す作業であろう。
  • これが人生だという説教を私は好かないので、うしろにぼんやりとそれらしきものが見える小説が書ければいいとねがうだけである。
  • 時代小説、、「物語プラス史実」とでも言うべきもの
  • 歴史小説を書こうと思ったら、わからないところは想像で補うしかありません。
  • 小説というものは、、、そこにいかに人間が描かれているか、その人間の織りなす人生が、どのように描かれているか、それが小説の生命なのです。

「海辺に立って一望の海を眺めると、水平線はっゆるやかな弧を描く。そのあるかまきかのゆるやかな傾斜弧を海坂(うなさか)と呼ぶと聞いた記憶がある。うつくしい言葉である。」
この海坂が「海坂藩」となった。「海坂もの」と呼ばれる作品は、長編10本、短編21本を数える。
井上ひさしは、手製の海坂藩城下の地図を10枚以上もつくっている。井上ひさしの理想郷だった。

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犬との散歩の途中のせせらぎで見かけた青鷺(あおさぎ)と翡翠(かわせみ)。

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京王永山から多摩大までのかなりの坂道を30分歩いた。