「生成AIオンライン合宿3DAYS2024夏」の2日目ーーー刺激的な一日

「生成AIオンライン合宿3DAYS2024夏」の2日目。朝から夜まで刺激的な時間を過ごした。今日も400人ほどが参加していた。

f:id:k-hisatune:20240831064139j:image

以下、次の人たちの講義からーー平野友康。かえるん。奥出直人。橋本大也。斎藤賢爾。、、

  • 生成AI:ChatGPT(軽自動車。静止画、キャプション、動画、音、ナレーション、、)。Claude(頭がいい。ハイオク。ベンツ)Perplexity(アンサーエンジンとして調査では一択。課金効果高い。信頼度が高い。住民の声や四季の移り変わりなども記述。地図を読んで文章で説明)。まずはこの3つを使えるように。いずれ一つの生成AIになる。
  • PLAUD NOTE(議事録作成)。gemini。GoogleAIStudio。天秤ai(生成AIの比較検索)。Dify.ai。Cursor(プログラミング)。Cypher。suno。ルマ。
  • Claude:画像、スライドを入れると意図をくみ取り目次をつくる。元ネタとしてパワポの書類などのファイルを添付すると学習する。(文明、文化の図解を読み込ませると文章もできあがる)
  • 糸島で生成AIの研究と実装。市場調査、アイデアだし、ビジネスプラン。壁打ち。「彼」。仕事のやり方の革命。学習し、継続的に進化。すべてを再定義、再構築。会社は学校になる。教育は一変する。「生成AIネイティブ」の誕生。
  • 3年後にAIG(汎用AI)が登場(シンギュラリティは2045年から前倒し)。2023年1188億円の生成AIの事業規模は、2025年に6879億円、2030年に1.77兆円と年間46%の直線的成長)。
  • 音声と生成AIは相性がいい。人間を楽器の集まりのように扱う。声を残す。多言語が普通になる。ラジオの時代。
  • 関係性。徳のある社会(時間と空間のねじれの記憶の存在)へ。生成AIはかつての牛馬、猟犬と同じくともに生きていく仲間。ギアツの深い参与観察に基づく濃い記述はメタ認知(客観的で高い次元)を引き出す。ラツール。これをAI研究に応用。アクター(人と自然)との初期体験は未知との遭遇エスノグラフィーの最初のセッティング(通常は半年から1年かかる。一番手間がかかる)を生成AIでごく短期間でできる。身体知、身体化されていることはリーダーに必要。10万人の生活圏サイズは場所と記憶の交流の単位。北前船を支えた日本海側のまちの連携。生成AIで短い時間で仕事が完成するから、業績は伸びる、そして生活の余裕ができる。
  • 動画が面白い。生成AIは知のトランスフォーマー(いろいろなものに変換)。映画もつくれる。
  • A学生(課題を困難を乗り越えながらゴール)とA思考。X学生(ハチャメチャ。リスクをとる)とX思考。(中間のY人間とZ人間も重要か)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」8月30日。福原義春「私にとって完成はない。いつも次々と違った分野に取り組んで完成を目指して勉強している過程なのである」

福原 義春(ふくはら よしはる、1931年3月14日 - 2023年8月30日)は、日本実業家資生堂社長会長

東京出身。慶応大学卒。1953年資生堂に入社。商品開発部長、外国部長などをへて、1987年社長。1997年会長。物流の合理化、流通の再編成をすすめ、医薬品開発など経営の多角化をはかった。

福原義春『ぼくの複線人生』(岩波書店)を読了した。

「本籍は銀座、生まれは神田、住まいは山の手」という坊っちゃん育ちである。祖父の福原有信は薬局「資生堂」を創業した。

孫の義春は資生堂の大卒定期採用一期生として1953年に入社した。その後の高度成長時代は、よく働き、よく学んだ時代である。営業の現場から、企画部門を経て、製品開発課長となる。福原は職人気質の下積みからのたたき上げであった。明治から大正にかけての初期は商品をナショナルブランドに育てた。昭和時代はワールドブランドに育てる使命があると自覚することになった。商品開発部長、外国部長を経て、1978年に25年の歳月をかけて46歳で取締役となった。1987年に、前社長の逝去にともない社長に就任した。

その直後に将来をにらみ大ナタを振るい課題在庫を一掃する経営改革に着手した。「我々は住みなれた大陸から別な島を求めて航海に出ることにした。海図はない。ただ星だけが頼りだ。その星はお客様である」とのメッセージを出している。

改革は全て軸さえ動かさなければ、辛抱強く長い期間かけてできるものなのだ、と言ったとおり、業績は順調に上がっていく。「一つの目的に向かって絶えざる努力を続ければ思いがけぬような立派な結果が得られる」と述べている。

社長在任の10年間は、日本の絶頂期を彩る超優良会社として、また文化活動に熱心だとして常に社会の注目を浴びた。経団連東京商工会議所などの財界活動も始め、メセナ協議会の会長、東京都写真美術館館長にも就任している。

こうやってんみると、仕事一筋の人のように見えるが、福原は「僕の人生は会社だけで燃え尽きるものではない」と喝破している。それは子ども時代から、父に倣った趣味の蘭のコレクションが趣味である。蘭を通じた国内外の人々との交流についても楽しそうにこの本で語っている。

私は宮城大学時代の大きなイベントで福原さんを迎えたことがある。そのときは、有名な資生堂世襲トップという認識だった。ご本人の自伝を読んで、実は長い社員時代には配置された部署で実績をあげ続け、会社の問題の所在に心を痛めており、トップとなったときにそれらを解決し、資生堂の路線を明確にしたから、単なる世襲経営者とは違うことを知った。

また、趣味の「蘭」のコレクターとして個人の心の癒しだけでなく、欄を育てながら、人間のことも考えている姿を知った。仕事人としての公人、よき家庭人としての私人、そして蘭のコレクターとしての個人をしっかり守っていた人であったことを知った。福原義春まっとうな、そしてバランスのよい生涯を送った人なのだ感銘を受けた。『ぼくの複線人生』というタイトルに納得した。